大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  59

『法華玄義』現代語訳  59

 

◎二諦について麁と妙を判別する

蔵教である実有の二諦は不完全な法門である。能力の低い人に対して、誤った見解の汚物を除去させるものであり、俗諦と真諦があくまでも異なっているので二諦の義は成立していない。このような教えを麁とする。通教である如幻の二諦は完全な法門であって、能力の高い人を救う。諸法実相(しょほうじっそう・すべての実在の真実の在り方)について、声聞と縁覚と菩薩の三乗の人々が共に悟ることができるので、前の実有の二諦に比べれば妙である。しかし、ただ空のみを見ることにおいては、これに続く教えに比べれば麁である。別入通教では不空を見る。これは妙である。しかし、教えが真理と相対しているので麁である。円入通教は妙である。妙はこれに続く教えと異なることはないが、通教の方便を帯びているので麁である。別教の二諦は、通教の方便を帯びていない。このために妙である。しかし、教えが真理と相対しているので麁である。円入別教は、教えが真理と相対していないので妙であるが、別教の方便を帯びているので麁である。ただ円教の二諦だけが正しくこの上ない道である。このために妙とするのである。

次に随情・随情智・随智を用いて麁と妙を判別する。

まず三蔵教の二諦から述べる。最初に一般人が随情をもって二諦を聞いても、真実の言葉を偽りとし、言葉についての誤った見解を起こすので、いくら生まれ変わっても仏の教えとは縁がない。したがって、諦とは何ら関係がない。しかしもしその人が、身体は不浄であり、認識するものはすべて苦しみであり、心は無常であり、すべてに自分自身というものはないという四念処(しねんじょ)を知って修行すれば、四善根(しぜんこん・煗位、頂位、忍位、世第一法位のであり、修行の初歩の段階のこと)を生じる。その時の随情の二諦を共に俗諦とする。そして悟りを得て、その智慧で照らすところの随情智の二諦を共に真諦とする。四果(しか・四善根より上の段階)の人より、煩悩から離れた智慧によって照らすところの真諦と俗諦を、共に随智の二諦と名付ける。随情は麁であり、随智は妙である。たとえば、乳味の教えによって酪味の教えに至るようなものであり、すでに酪味の教えを成就しているならば、『維摩経』にあるように、心が整えられ、維摩詰(ゆいまきつ)の家に入ることができる。すわなち、随情・随情智・随智を用いて、通教・別入通教・円入通教を説き、これを通して小乗を恥じて大乗を慕い、自ら仏になれない位にいたことを悲しみ、より優れた教えを求めるようになる。このようなことは、酪味の教えから生蘇味の教えに上ることである。『法華経』にあるように、心がようやく安泰となり、随情・随情智・随智をもって、別教・円入別教を説き、円教と別教の菩薩だけが学ぶことのできる不共般若(ふぐうはんにゃ)を明らかにし、『法華経』にあるように、窮子から立ち直った息子に家財が受け継がれるようなことになる。金銀珍宝などの出入を任され、皆知るのである。これを知り尽くせば、すなわち生蘇味の教えを更新して熟蘇味の教えとなるようなものである。諸仏の教えは時至って、必ず真実を説くのである。すなわち随情・随情智・随智をもって、円教の二諦を説く。これは熟蘇味の教えを更新して醍醐味の教えとするようなものである。つまり、六種類の二諦をもって衆生を導き、乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味の四つの教えを成就させることを麁として、醍醐味の教えを妙とするのである。

また、まとめて麁・妙を判別する。蔵教と通教の教えには、随智などが含まれると言っても、これはあくまでも随情である。仏が能力の劣った人に合わせて説いている他意語(たいご)だからである。このためにこれを麁とする。別入通教と円入通教と別教と円入別教の教えには、随情などが含まれると言っても、これはすべて随情智である。仏が説こうとすることが相手の能力にも合っている自他意語(じたいご)だからである。このためにこれを麁でありまた妙であるとする。円教の二諦は、随情智などが含まれると言っても、これはすべて随智である。仏が説こうとする教えそのものである自意語(じいご)だからである。このためにこれを妙とする。

問う:蔵教と通教の二諦が随情ならば、四諦の真理を見るものではないので、悟りに到達しないであろう。

答える:中道を得ることがないので随情とするのである。諸仏如来は空しく教えは説かない。中道そして第一義悉檀ではないけれども、世界悉檀・各各為人悉檀・対治悉檀の利益(りやく)を失わない。このように判断すると、みな随情に属して麁とするのである。

もし七種類の二諦をもって五味の教えに当てはめれば、乳味の教えが別教・円入別教・円教の三種類の二諦となり、二麁一妙である。酪味の教えはただ実有の二諦のみであり、もっぱら麁である。生蘇味の教えは七種類の二諦すべてを備え、六麁一妙である。熟蘇味の教えは六種類(注:蔵教を除外するため)の二諦であり五麁一妙である。『法華経』の教えはただ一つの円教の二諦のみであり、六種類の方便はない。ただ妙だけであり麁ではない。『法華経』の題に妙とあるのはこの意味である。以上、相待妙をもって麁妙を判断した。