大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  58

『法華玄義』現代語訳  58

 

◎二諦について解説する

正しく二諦を解説するにあたって、まず概略的に一言で述べるならば、法の本質を指して真諦とし、無明から生じる十二因縁を俗諦とすれば、意義的に充分である。しかし、人の心は荒々しく浅く、深い妙である理法を悟ることはない。そのため、詳しく述べるならば、七種類の二諦をあげる必要がある。そしてその七種類の二諦一つ一つに、先にあげた随情・随情智・随智の三つがあるので、合計二十一種類の二諦があることになる。もし最初の二諦をもって、すべての誤った見解を破れば、煩悩執着はみな滅ぼし尽くされ、それはまるで、この世の終わりの大火によって塵一つも残らないようなものである。ましてや、他のあらゆる諦を用いる必要はなく、経文以外のこの世の知恵を用いる必要もない。

まず、この七種類の二諦をあげると次の通りである。第一は、存在の実体を前提とする実有(じつう)を俗諦とし、その実有を滅ぼすことを真諦とする(蔵教の二諦)。第二は、存在するものは幻であるとする幻有(げんう)を説くことを俗諦とし、幻有は空であるとすることを真諦とする(通教の二諦)。第三は、幻有を俗諦とし、幻有は空であって同時に不空であることを真諦とする(別入通教の二諦)。第四は、幻有を俗諦とし、幻有は空であって同時に不空であり、さらに空と不空が相対せず帰一することを真諦とする(円入通教の二諦)。第五は、幻有であり同時に幻有は空であるとすることを俗諦とし、不幻有であり同時に不空であるとすることを真諦とする(別教の二諦)。第六は、幻有はすなわち空であるとすることを俗諦とし、不幻有であり同時に不空であり、不幻有と不空は相対せず帰一することを真諦とする(円入別教の二諦)。第七は、幻有であり、同時に幻有は空であるとすることを俗諦とし、幻有と空と不幻有と不空が互いに相対せず帰一することを真諦とする(円教の二諦)。

(注:この七つの分類は、今までのパターンであった「蔵教」「通教」「別教」「円教」の四教の分類に、さらに他の「教」に「つながる(入)」という意味を持つ「別入通教」「円入通教」「円入別教」の三つを間に加えたものである。意義的には、「中道」を含むといことであるが、これは後に詳しく述べられる。あらためて順番に記すと、「蔵教」「通教」「別入通教」「円入通教」「別教」「円入別教」「円教」となる。なお、「入」は「接」とすることもあるが、ここでは最後まで「入」で統一することにする)。

〇蔵教の二諦

上に述べた七種の二諦の第一は、実有の二諦である。人間の認識とその対象はすべて実際に存在するものとし、森羅万象を実際に存在するとすることを俗諦とする。方便をもって道を修し、この俗諦を滅ぼし尽くして真諦を悟る。『般若経』に「認識の対象である色(しき)に智慧をもって対すると、色は空となる。俗諦を滅ぼすので空色(くうしき)とする。そして、それは色そのものを否定することではないので色空(しきくう)という」とある。また「病の中に薬はなく、文字の中に悟りはない」とある。これはすべてこの意味である。これを実有の二諦の姿とする。これについては、先にあげた随情・随情智・随智の三つがあるが、これに準じて知るべきである。

〇通教の二諦

二諦の第二は、幻有空の二諦である。前の実有の二諦を更新するものである。なぜなら、すべての実在は実際に存在するとするならば、そこに真諦はなく、その存在に実体がないとするならば、そこに俗諦はなく、それでは二諦が成立しないからである。存在するものは幻であることを説くことについて述べれば、存在を幻とすることは俗諦であり、その幻である存在は得ることができないとすることは、俗諦がそのまま真諦となる。『般若経』に「色はそのままで空であり、空はそのままで色である」とある。空と色は互いに同一であることによって二諦が成立する。これを幻有空の二諦と名付ける。これに準じて随情・随情智・随智の三つがある。

しかしここで、随智について少々説明しなければならない。なぜなら、実有の二諦における随智が真諦を照らせば、幻有空の二諦の真諦と同じになる。しかし、実有の二諦における随智が俗諦を照らせば、幻有空の二諦の俗諦と同じにはならない(注:実有の二諦の俗諦は、存在はあるとするところから出発しており、幻有空の俗諦は、最初から、すべては幻である、とするからである)。通教の人が観心に入ることは巧みであり、同様に俗諦を照らすことも巧みなのである。多くの川が海に入れば、その水の味は同じになるが、川の水源に戻れば、すべての川はすべて異なっている。俗諦はこの世の次元のことなので、随智が照らせばさまざまに異なることは疑いようがない。しかし真諦は真理の次元なので、異なるわけがない。また通教の人が衆生済度のためにこの世の次元に入ることにおいても、一般の人と同じではない。これ以上のことは準じて知るべきである。三蔵教の人がこの世の次元に入ることも、また同様である。

〇別入通教と円入通教の二諦

二諦の第三と第四は幻有不空の二諦である。俗諦を、存在するものは幻であるとすることにおいては通教・別入通教・円入通教の三つはみな同じである。しかし、真諦はすべて異なっている。俗諦は一つであって、真諦がそれぞれ異なっているところから、通教は通教・別入通教・円入通教の三種類の二諦となるわけである(注:ここが、「通教」と「別入通教」と「円入通教」を見分ける基準となる)。ではそれぞれの真諦とは何か。

般若経』に非漏非無漏(ひろひむろ・「漏」は煩悩のこと。煩悩でなく煩悩でないことでもない、という意味)を説いていることと同じである。非漏は俗諦ではなく、非無漏は執着を除くことだと悟る。なぜなら、修行者が煩悩を滅して無漏に達しても、また到達したという執着を生じさせてしまえば、煩悩を滅ぼすことによって煩悩を生じさせるようなものである。この執着心を破って、まさに煩悩を滅ぼした状態の無漏に入る。これはすでに述べた通教の二諦の真諦である(注:ここに、蔵教の二諦の眞諦を得て、その悟りに執着する小乗の人々への批判が込められている)。

次に、非漏非無漏について、両極端のものではないと悟って、中道の真理に導かれる。この中道を真諦とする。これは別入通教の二諦である(注:中道があるために、さらに上の段階に導かれるわけである)。

また、非有漏非無漏(注:意味的には「非漏非無漏」と同じ)について、両極端であって、しかもそのまま中道に導かれ、中道の次元の力と働きは虚空のように広大であって、すべての実在は非有漏非無漏に帰一することを知る。これは円入通教である(注:最終的に帰一するということが円教である)。

『涅槃経』に「声聞の人はただ空を見るだけであり、不空を見ない。智者は空および不空を見る」とある。この文は蔵教の声聞のことであるが、さらに進んで通教の三種類に分けられる。声聞と縁覚の二乗の人は、この空ということに執着するのである(注:これは蔵教に当たる)。空に執着することを破るために不空ということがある。空に執着することを破れば、ただ空を見るだけであり、すでに執着がなくなったのであるから不空は見ない(注:これは通教に当たる)。また能力の高い人は、不空は妙有(みょうう)と悟って、それを不空とする(注:これは別入通教に当たる)。またさらに能力の高い人は、不空を如来蔵(にょらいぞう・仏の悟りが煩悩の中にあるという意味)と悟って、すべては如来蔵に帰一するとする(注:これは円入通教に当たる)。このように、空と不空に当てはめて、三種類の通教の二諦がある。

また次に、すべての実在は非漏非無漏に帰一するということにおいて、この三種類の通教を述べるならば、次の通りである。通教の人は、すべての実在は非漏非無漏に帰一するということを聞けば、すべての実在は空を離れるものではなく、その空はすべての世界に共通するものであると理解する。しかし、かえってこれは瓶(かめ)の中の空である。また、別入通教の人は、すべての実在は非漏非無漏に帰一するということを聞けば、この中道の真諦はすべての修行を通してこれを悟るとする。また円入通教の人は、すべての実在は非漏非無漏に帰一するということを聞けば、非漏非無漏が、そのまますべての実在そのものなのだとするのである。

このために、この三種類において俗諦は一つであり、この一つの俗諦は、三種類の真諦へと展開する。通教は、空だけの真諦であり、別入通教は、一つは空と中道の二つの真諦であり、円入通教は、一つは空と仮と中の三つが互いに備わっている不思議の真諦である。このような無量の教えの形は、それぞれの能力に応じて人に対し、人々を導く。

さらにこの三種類の通教のそれぞれに随情・随情智・随智の三つの義がある。もし随智について述べれば、俗諦は智慧に従って展開する。その智慧がただ空だけを説く真諦となれば、通教の二諦となる。またその智慧が不空の真諦となれば、別入通教の二諦となる。またその智慧が、すべては不空であるという真理に証すれば、円入通教の二諦となる。この三種類に相当する人は同じではなく、このため俗諦に対することもそれぞれ異なる。なぜこの三人は同じく俗諦・真諦の二諦を聞いて、悟りが異なるのかと言えば、円教と別教の菩薩だけが学ぶことのできる不共般若(ふぐうはんにゃ・単に存在に実体があるという認識を破るだけではなく、その先に広く仏の性質と本性を明らかにする智慧)と、声聞と縁覚と菩薩がすべて共通して学ぶことのできる通教の共般若(ぐうはんにゃ・すべての存在は実体を持つという誤った認識を破る智慧)があるためである。すなわち、真理に対して浅いか深いかの違いのみである。『般若経』に、「菩薩が最高の悟りを求める心を起こした時、空の智慧に応じることもあり、神通力によって仏の国土を清めることもあり、仏が悟りを開いた道場に座って仏のようになることもある」とある。これはこの意味である。

〇別教の二諦

別教の二諦とは、俗諦を幻有であり同時に幻有は空であるとするとし、真諦を不幻有であり同時に不空であるとする。すなわち、幻有と空が相対しているので俗諦である。そして、不幻有であり同時に不空であるということは、二つのことが相対していない中道なので真諦なのである。声聞と縁覚の二乗は真諦と俗諦を聞いても共に理解することができず、口のきけない人や耳の聞こえない人のようになってしまう。『涅槃経』に「私は弥勒菩薩と共に世諦(=俗諦)について論じあったが、五百人の声聞は、あれは真諦について論じているのだと思った」とあるのはこの意味である。これについての随情・随情智・随智は準じて知るべきである。

〇円入別教の二諦

円入別教の二諦とは、俗諦は別教と同じであり、真諦は異なる。別教の人は、不空はただ真理のみであると悟る。この真理を表わそうとするならば、修行という方便を用いる必要があるので、すべての実在は不空に帰一するという。しかし円入別教の人は不空の真理を聞いて、修行を経ずとも、それはそのまますべての仏の教えを備えるものであり、何ら欠けるところがないと知るので、すべての実在は不空に帰一するとするのである。これについては同じように随情・随情智・随智がある。

〇円教の二諦

円教の二諦とは、そのまま不思議の二諦を説くのである。真諦はそのまま俗諦である。俗諦はそのまま真諦である。これは如意宝珠のようである。すなわち、珠は真諦の喩えであり、その不思議な力は俗諦の喩えである。珠はそのまま力であり、力は珠そのものである。二つであってそのまま一つならば、表面的に真諦と俗諦を分けるのみである。これについては同じように随情・随情智・随智がある。釈迦の弟子である舎利弗(しゃりほつ)が『法華経』の中で、「仏はあらゆる条件となる事がらや譬喩を用いて巧みに教えを説く。この説法を聞くと心が穏やかな海のようになる。私は聞いて疑いを晴らすことができた」と言っているのはこの意味である。

問う:真諦と俗諦は相対しているからこそ二諦を形成する。なぜ同じなのか。

答える:これは次の四つの言葉によって説明できる。俗諦は異なっていて真諦は同じ。真諦は異なっていて俗諦は同じ。真諦と俗諦は異なっていて相対する。真諦と俗諦は同じであって相対する。

三蔵教と通教は、真諦が同じで俗諦は異なっている。別入通教と円入通教は、真諦は異なっていて俗諦は同じである。別教の真諦と俗諦は共に異なっていて相対している。円入別教は、俗諦は円教と同じで真諦は異なっている。円教は真諦と俗諦は異ならないままで相対し、同じでないけれども同じである。完全な円教の教えに入らねば、それぞれの俗諦と真諦は相対するのである。

七種類の二諦は、詳しく述べれば以上の通りである。概略的に述べれば、この世の次元(=界内)で俗諦と真諦が相対しているのが蔵教の二諦であり、この世の次元で俗諦と真諦が互いに備え合っているのが通教の二諦であり、霊的次元(=界外)で俗諦と真諦が相対しているのが別教の二諦であり、霊的次元で俗諦と真諦が互いに備え合っているのが円教の二諦である。そしてそこにそれぞれ別教に接する通教である別入通教の二諦があり、円教に接する通教である円入通教の二諦があり、円教に接する別教である円入別教の二諦がある。

問う:なぜ三蔵教の二諦は他と接しないのか。

答える:三蔵教の二諦は、この世の次元で俗諦と真諦が相対している。小乗仏教の悟りを取る能力の劣った人なので、大乗仏教の悟りとは接しないのである。他の六つは大乗仏教の教えである。もし三蔵教から先に進もうとするならば、小乗の教えから去らねばならない。そうすれば、他と接するようになる。

問う:もし接しないとするならば、三蔵教の教えそのままでは真理とされないのか。

答える:接するということは、そのままで真理とされるということと意味が違う。『法華経』の教えによって、三蔵教もそのままで真理とされる以前においては、あくまでも小乗と大乗は異なっているので、接するということを論じることは不可能である。