大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  66

『法華玄義』現代語訳  66

 

②.智妙

 

第二に、「智妙」について詳しく述べるにあたって、究極的真理は玄妙であり、智慧によらなければ表わされることがないと知らねばならない。智慧はそれをよく知るが、その対象である境が円融していなければ智慧も円融しない。すでに述べたように、境は円融する妙であるので、智慧もそれに応じている。まさに実物に対する影の如く、音に対する響きの如くに応じている。このために境妙に続いて、智妙について述べるのである。

智についいて述べるにあたって、まず総合的に諸智を解釈し、次に境に対して智を述べる。

 

a.総合的に諸智を解釈する

総合的に諸智を解釈するにあたって、六つの項目を立てる。第一は数(すう)、第二は類(るい)、第三は相、第四は照、第五は判、第六は開である。

 

第一.数

諸智を解釈するにあたっての第一は数である。ここでは、これから述べる諸智の二十種類の名称だけを並べて記す。そして後の項目によって、それらの諸智を詳しく述べていくことにする。

①世智、②五停心・四念処の智、③四善根の智、④四果の智、⑤支仏の智、⑥六度の智、⑦体法声聞の智、⑧体法支仏の智、⑨体法菩薩入真方便の智、⑩体法菩薩出仮の智、⑪別教十信の智、⑫三十心の智、⑬十地の智、⑭三蔵仏の智、⑮通教仏の智、⑯別教仏の智、⑰円教五品弟子の智、⑱六根清浄の智、⑲初住より等覚に至る智、⑳妙覚の智。

(注:『法華玄義』は、仏教をすべて一つのものとして述べているので、あらゆる経典に記されている修行の段階とその智慧をすべて網羅しようとする。そのため、非常に多くの、また複雑な修行の段階について述べ尽くすことになる。しかし事実は、大乗仏教の各経典は一人の歴史的釈迦の説ではなく、最初から多くのグループに分かれていた大乗の各教団で創作されたものである。当然、各グループごとに思想や考え方に違いがあり、各経典で主張される修行段階にも違いがある。これらの事実が明らかとなったのは、明治時代以降であるので、天台大師の時代には、すべての経典が歴史的釈迦の教えであると何の疑いもなく信じられていた。そのため、これらの修行段階も同じ一人の釈迦の所説として、すべて一つの流れとして理解しようとする。各経典で説かれる修行段階をすべて一つに集めて段階付けするわけであるから、非常に多くの修行段階となり、それらを学ぶだけで精一杯であり、実際修行する時間もなく一生が終わるのではないかと思われるほどである。またさらに、そもそも、生きた人間の微妙な修行段階など、これほどまでに細かく厳密に分けられるものなのか、という疑問もわく。繰り返すが、各経典はその経典一つで本来完結しており、このようなもともと主張の異なっている数多くの経典に記されている修行段階を、すべてひとつにまとめるということは、そもそも無理なことをしているわけである。それは今までの五時八教の分類に通じて言えることであるが、とにかくすべて釈迦の言葉であるので、一つも取捨選択することができない、という大前提に立っているのである。さらに言うならば、日本の鎌倉時代の初期に出た、浄土宗の開祖である法然が、『選択本願念仏集(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)』を記して、仏教史上初めて、数多くの経典や教えの中から念仏だけ、それも口で唱える称名念仏だけを「選択する」ということを主張したことは(最初は法然も猛反対を受けることを良く知っていたので、この書物が世に出ないようにし、認めた弟子たちだけに読ませていた)、当時非常に衝撃的なことであり、この「選択」ということに猛然と批判を加えたのが、その時は天台宗の僧侶であった日蓮である。日蓮のそのような批判は、天台教学に立てば非常に正しいことになる。

また、大乗仏教では、人生をこの世の一度のものとは考えておらず、何度も転生するということが前提となっている。そのため、その膨大な修行の段階を一つ一つ成就して、やがて最高の悟りに達し仏になるのだ、ということである。そしてまさに『法華経』は、数えきれないほどの仏の国土に生まれ変わりながら、最終的な悟りに達し仏になると説いている。したがって、『法華玄義』をはじめ、大乗仏教で説かれている数えきれないほどの修行の段階は、この世においてはほとんど実行できない、いや実行が要求されていないものだという余裕を持った認識が必要である。またそのような認識を持っていなければ、とても『法華玄義』を最後まで読み通すことは不可能である)。

 

第二.類

諸智を解釈するにあたっての第二は、類である。ここでは、諸智をこの二十種類に分類する理由について説明する。

①世智とは、この世の知恵であり、真実の道はなく、邪悪な思いに執着する。その心は真理の外にあり、真理の教えを信ぜず入ろうともしない。

②五停心・四念処(ごじょうしん・しねんじょ)の智とは、仏道に入る準備段階である初賢(しょけん)の位で行なう五停心観(散乱する心を整える数息観(すそくかん)、欲望の貪りを抑える不浄観、怒りである瞋恚(しんに)を抑える慈悲観、愚痴を抑える因縁観、仏道の障害を除く念仏観の五つの禅定)と、四念処(世のものは無常であるという諸行無常を観じる心念処(しんねんじょ)と、この世は苦しみであるという一切皆苦(いっさいかいく)を観じる受念処(じゅねんじょ)と、この世は汚れているという不浄観の身念処(しんねんじょ)と、自我というものはないという諸法無我(しょほうむが)を観じるという法念処(ほうねんじょ)の四つの観)の智慧である。仏の教えを求める気持ちがあるが、まだこの世の人と同じ思いから離れていない段階である。

③四善根(しぜんこん)の智とは、四善根(ようやく煩悩を焼く智慧が生じ始めた段階の煖法(なんぽう)、尋ね求める気持ちが起こる頂法(ちょうぼう)、忍耐の気持ちが起こる忍法(にんぽう)、この世の人と同じ思いから離れる直前の世第一法(せだいいっぽう))の位の智慧であり、まだこの世の人と同じ思いから離れていない段階である。

④四果(しか)の智とは、四善根に続く同じ蔵教の段階であり、初果・一果・二果・三果・四果と続く。真理を見ることができるようになった段階である。

⑤支仏の智とは、この世の因果を観じて煩悩の残りを消す段階の智慧である(注:支仏とは辟支仏(びゃくしぶつ)、つまり縁覚のことである)。

六度の智とは、まだ真理を直接見る力は弱いが、この世の具体的な事柄を見抜く五力が強い段階の智慧である(注:六度とは、菩薩の修行項目である六波羅蜜のことである)。

⑦体法声聞の智とは、通教の方便の声聞(声聞であっても体空観を学ぶ者)の智慧であり、すべては幻だと観じる体空観(たいくうがん)が優れている。

⑧体法支仏の智とは、縁覚(=辟支仏)の智慧は声聞より多少優れている。

⑨体法菩薩入真方便の智とは、通教の菩薩が空の真理に入る方便の智慧であり、有門(うもん)と空門と亦有亦空門(やくうやっくうもん・有でもありまた空でもある)と非有非空門(ひうひくうもん・有でもなく空でもない)とを観じる四門をあまねく学ぶのである。

⑩体法菩薩出仮の智とは、通教の菩薩がこの世に対して正しく応じる智慧である。

⑪別教十信の智とは、中道を知り、前の智慧より優れ、後の智慧より劣っている智慧である。

⑫三十心の智とは、十信に続く十住・十行・十回向の三十心の、修行が退くことがなくなった位の智慧である。

⑬十地の智とは、十住・十行・十回向の次の段階の十地の位の智慧である。

⑭三蔵仏の智とは、三蔵教の仏は師の位であって、声聞、縁覚、菩薩の弟子に勝る智慧である。

⑮通教仏の智とは、各人の能力に従って、煩悩を断じさせることが優れている通教の仏の智慧である。

⑯別教仏の智とは、通教の仏より優れた智慧である。

⑰円教五品弟子の智とは、性質として煩悩を備えているが、よく如来の秘密の豊かさを知る智慧である。

⑱六根清浄の智とは、次の段階である初住(しょじゅう)の位の前の段階の智慧である。

⑲初住より等覚に至る智とは、無明を滅ぼし尽くす初住から等覚(とうがく)の位に至る智慧である。

⑳妙覚の智とは、この上ない最も尊い智慧である。

以上これらは、その智慧の種類に従って、似ているものを分類し、また分離したり合わせたりして、この二十種類としたのである。