大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

『観心本尊抄』 1

観心本尊抄』解説および現代語訳 1

 

如来滅後五五百歳始観心本尊抄

文永十年(1273年)四月二十五日 五二歳

本朝沙門 日蓮 撰

 

天台大師(てんだいだいし:智顗(ちぎ・538~598)。中国の陳から隋の天台宗第三祖。実質的の開祖とも言える)の『摩訶止観(まかしかん・天台大師講述の観心を具体的に説かれた書物)』第五巻に次のようにある。「一心に十法界(じっぽうかい・地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏という人が経るところの十種の世界)が備わっている。各一法界にまた他の十法界が備わっていれば、百法界である。一法界に三十種の世間(三種世間×十如是・別に注を記す)が備わっていれば、それが百法界になると三千種の世間が備わっていることになる(注:つまり一心に三千世間が備わっていることになる)。世間と如是は本来一つである。それは表現方法の違いに過ぎない。この三千世間は一念の心にある。もし心がないとするならば、すべてはない。心があれば、そこに必ず三千世間が備わっているのである。ここに心を不可思議境(人間の思考では理解できない観心の対象・十乗観法の第一)とする意味がある」。またある別の写本には「一法界に三種の世間が備わっている」とある。

(注:天台大師の教えは「観心(かんじん)」のための教えである。「観心」とは、自らの心の状態を観察することで、悟りを得ようとする修行方法である。一瞬の心の中に、すべてが含まれているので、心を観察することはすべてを対象としていることに等しい。その一念は十種類の在り方である「十法界」に及び、さらに「百法界」に及ぶのであるから、この世の次元に限らず、数限りない霊的次元が「観心」の対象となる。したがって、悟りを得るためにどこか遠くに行ったり、何かを新たに得たりする必要はないのである。

そして、「三種世間」とは、人々が住む世としての「衆生世間(しゅじょうせけん)」と、その人々が住む場所としての「国土世間(こくどせけん)」と、人の認識の生じる過程を五つの段階として表わした「色、受、想、行、識」の「五蘊(ごうん)」を世間とした「五陰世間」の三つである。哲学者の西田幾多郎が、『善の研究』の中で、「意識現象が唯一の実在である」と言っているように、人は認識的存在であるので、人間を肉体とはせずに「五蘊」と表現しているのである。まず「色(しき)」は「認識の対象があるとする状態」をいう。そもそも認識がまだ生じていないので、「認識の対象があるとする」というのは不適切であるが言葉がないのでこのように表現するしかない。「認識の対象がある」という動きが生じることは、そこに「自我」があるからであり、「色」は「自我」がある証拠ともいえる。そして「自我」はその人の過去世からの「業(ごう)」が生じさせるものである。なお、一般的に「色」は「物質」と解釈しているのがほとんどであるが、そもそも認識を離れた物質など存在しないので、この解釈は間違っている。次の「受」は、その対象が何かということを受け取ろうとする働きである。「想」は、その受け取られた情報が何であるか思い巡らすことである。「行(ぎょう)」は、その思い巡らした結果を踏まえ、意志が働くことを指す。「識」は意識することである。この「色」から「識」までが一瞬にして行なわれ、認識が生じるとする。この「五蘊」がすなわち人間のすべてである。そのため有名な『般若心経』では、冒頭に「五蘊はみな空である」とあり、「五蘊が空」であると悟れば苦しみから解放される、と教える。

次に「十如是(じゅうにょぜ)」は、『妙法蓮華経』すなわち『法華経』の「方便品(ほうべんぽん)」にある言葉で、「如是相」「如是性」「如是体」「如是力」「如是作」「如是因」「如是縁」「如是果」「如是報」「如是本末究竟等(ほんまつくきょうとう)」の十通りの言葉で、すべての実在の要素を十通りに分けて示したものとされる。この「十如是」について、天台大師の『法華玄義(ほっけげんぎ・天台大師講述の教理を中心として説かれた書物)』には次のように詳しく説明がある。

『「十如是」の最初の「如是相(にょぜそう)」の「相」とは、いわゆる外見による言葉である。見てわかる事柄なので「相」つまり姿や形というのである。次の「如是性(にょぜしょう)」の「性」とは、本来内にある事柄を指す。つまり本性のことであり、自ら改められるものではないので「性」というのである。「如是体(にょぜたい)」の「体」とは、正体つまり実質ということである。「如是力(にょぜりき)」の「力」とは、能動を意味する。「如是作(にょぜさ)」の「作」とは、材料をもって作ることを意味する。「如是因(にょぜいん)」の「因」とは原因のことであり、「如是縁(にょぜえん)」の「縁」とは「因」が「果」に向かうための条件のことであり、「如是果(にょぜか)」の「果」とは結果のことである。「如是報(にょぜほう)」の「報」とは、「果」による善悪の報いである。そして最後の「如是本末究竟等(にょぜほんまつくきょうとう)」については、「本」は「十如是」の最初の「相」を指し、「末」は直前の「報」を指し、「究竟等」とはその「相」から「報」までによって帰一するところを指す』。

そして「三種世間」×「十如是」×「百法界」とすることによって、すべての存在を網羅した数値を導き出しているのであり、その数値が「三千」ということである。つまり、「一念三千」とは、一瞬の心にすべてが含まれているため、その一瞬の心を観心の対象にする、ということなのである。さらに『法華玄義』で明らかになっているように、観心の対象を「境」と名付けるので、まさに「一念三千」とは、「境」のことを意味する。観心の対象である「境」が「一念三千」なのである。

そして、上に述べたように、人間は認識的存在であり、認識を離れて人は存在しない。認識がすべてである。したがって、「一念三千」=「すべて」ということである)。

 

問う:天台大師の『法華玄義』には、「一念三千」について説かれているのか。

答える:妙楽大師(みょうらくだいし・湛然(たんねん・711~782)。中国の天台宗の第六祖。唐の時代の天台宗中興の祖とされる。荊渓湛然(けいけいたんねん)と呼ばれる。日本の伝教大師最澄は湛然の孫弟子にあたる)は「説かれていない」と述べている。

(注:『法華玄義』には「一念三千」という言葉はないが、『法華玄義』で述べられている教理からは、じゅうぶん、一念の中にすべてが備わっているということは導き出される。同じく天台大師の講述である観心の実践書の『摩訶止観(まかしかん)』の中にも、「一念三千」という用語自体はないが、明らかに「一念三千」の教理は説いている。そしてこの「一念三千」という言葉を用いて、これが最も重要であるとしたのが、荊渓湛然である)。

問う:『法華文句(ほっけもんぐ・天台大師講述の『法華経』の言葉を中心として説かれた書物)』に「一念三千」について説かれているのか。

答える:妙楽大師は「説かれていない」と述べている。

問う:そのことについて、妙楽大師はどのように解釈しているのか。

答える:『法華玄義』にも『法華文句』にも「一念三千」という言葉はないと述べている。

問う:『摩訶止観』の第一巻から第四巻までに「一念三千」について説かれているのか。

答える:説かれていない。

問う:その証拠となる文はあるのか。

答える:妙楽大師の『止観輔行伝弘決(まかしかんぶぎょうでんぐけつ・『摩訶止観』の注釈書)』に「止観(しかん・心を観察する観心のこと)について、正しく観法を明かすために、一念三千をもって指南とした」とある。

(注:『観心本尊抄』の冒頭に、『摩訶止観』の第五巻にある「一念三千」の教理について述べられている箇所が引用されていた。上に述べたように、実際に「一念三千」という言葉は荊渓湛然が用いた用語であるが、間違いなく、この用語で表現されるべき教理である。そして、何度も「一念三千」について他の箇所で述べられていないのか、という問答が繰り返されていることは、日蓮上人が「一念三千」については『摩訶止観』の第五巻でその教理が説かれているということを強調する目的がある。

日蓮上人は、佐渡において、まず『開目抄』を記している。そしてそれに続いて、この『観心本尊抄』を記したわけであるが、これは表題にもあるように、「観心」についてである。天台教学では、「教学」と「観心」は、車の両輪のようにどちらが欠けてもいけないというほど、重要なものであるとされる。本来、「観心」は止観であり、瞑想を中心としたものであるが、日蓮上人はそうではなく、この「観心」という実践は、南無妙法蓮華経の五文字と、その周りに集まる仏菩薩諸善天人および祖師たちに対する信仰によって成就するとするのである。そのため、この書の最初に、「一念三千」という教理は、観心を説く『摩訶止観』にあるのだということを強調しているのである)。

(つづく)