大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

天台四教儀 現代語訳  17

『天台四教儀』現代語訳  17

 

第一項「五品弟子位」

 

円教の八つの位について、まず最初の五品弟子位について述べる。この五品の一つめは随喜品である。『法華経』の「分別功徳品」に、「もしこの経を聞いて批判せず、その内容に対して喜びの心を起こす」とある通りである。

問う:どんな教えに対して喜びを起こすのか。

答える:それは妙法である。妙法とは、すなわち心(しん)である。妙と心はそのまま一つである。自由自在にどのようなものでも出すことができ、しかも自らは変わらない如意宝珠のようである。心と仏とおよび衆生の三つは無差別である。この心は、即空即仮即中である。常に智慧の対象に色形はない。常に智慧は条件によって変化することはない。変化することはないままで条件に従って変化する。それは空仮中の三観に他ならない。色形がないのが色形である。この空諦仮諦中諦は永遠の真理である。悟りを求める最初の心においてこれを知れば、自らを喜ばせ、人を喜ばせる。このために、随喜という。內に三観を観じ、三諦を智慧の対象とし、外に五悔(ごげ・懺悔・勤請・随喜・廻向・発願の五つ。内容については後述あり)をもって勤め精進を加え、真理の理解を助ける。

その五悔の一つめは懺悔であるが、それは二つの面から見ることができる。一つめは理法の面であり、二つめは事象の面である。理法の面の懺悔とは、『観普賢菩薩行法経(『法華経』の後に説かれたとされ、結経と言われる)』に「もし懺悔しようとする者は、端坐して実相を念じる。すなわち、あらゆる罪は霜や露のようであり、智慧の日が昇れば消えるものである」。これはすなわち、この意味である。事象の面の懺悔とは、昼と夜の六時に身と口と心を清めて仏の尊像に対して過罪を告白する。すなわち、世の始めから今日この身に至るまで犯したすべてのわざ、殺父・殺母・殺阿羅漢・和合僧を破る・仏の身から血を流させる・邪淫偷盜・妄言綺語両舌惡口・貪瞋癡など、このような五逆十悪および他のすべてを、隠すことなく心のままに告白し、過去に犯したことは繰り返さない。このようにするならば、外界の妨げは除かれ、内の観心はますます明らかとなる。流れに乗った船にさらに竿を加えるようであり、どうして速度が落ちたり止まったりするだろうか。

円教の行者もまた同じである。正しく円教の理法と事象とを観じ、共に修行を助けるならば、どうして速やかに妙覚の彼岸に至ることがないであろうか。この教えを見て、漸教の修行と同じではないか、と言ってはならない。速やかに悟りに至るとされる円教に、このような修行などないというのは、はなはだしい誤りである。いったいどこに、天然の弥勒がいて、自然の釈迦がいるだろうか。もし教えを少し聞いただけで、生死即涅槃・煩悩即菩提・即心是仏などの真理に動かずしてたちまち到達し、修行したり習ったりしないまま究極的な悟りを得るならば、あらゆる世界はすべて浄土であり、触れたり会ったりする者は、みな悟った者でない者はいないということになるではないか。ここで、確かにすべての者はそのまま仏なのだ、といっても、それは理即(りそく・ありのままが真理の理法そのままであるということ)である。またそれは、本性が法身の仏であるということだけで、そこに仏の荘厳はなく、もともと修行や悟りとは関係ない次元のことなのである。私たちのような愚かな者は、少しだけ「即空」と聞いただけで、修行をやめることは、そもそも「即」ということを知らないことなのである。中道とか空とか言っても、鼠や空の鳥でもあるまい。そのような誤解をもたらす文字は経論の中に多いのであるから、正しい解釈が必要なのである。

その五悔の二つめは勧請(かんじょう)である。すなわち、あらゆる方角の多くの如来に対して、この身に住まわり長く留まられ、救いと知識を与えたまえと願うことである。

三つめは随喜であり、あらゆる善根を喜ぶことである。

四つめは廻向であり、あらゆる善を称賛し、それらを悟りに向かわせることである。

五つめは発願である。もし悟りを求める願いを発せなければ、すべてが成就しない。そのために、必ず発心して前に述べた四つの項目を導くべきである。

五品の二つめは読誦品(どくじゅほん)である。『法華経』に「ましてやこの経を読誦し受け保つ者は」とある。つまり、自ら円教の観心を修し、さらに『法華経』を読誦する者は、油を注いで火を助けるようなものである。

五品の三つつめは說法品である。『法華経』に「もしこの経を受け保ち読誦し他人のために説くならば」とある。つまり、自ら優れた理解をとげ、さらに人を教化するならば、その功徳は自分に返って来て、悟りに向かう心はますます強まるのである。

五品の四つめは兼行六度品(けんぎょうろくどほん)である。『法華経』に「またある人が、この『法華経』を保ち、同時に布施などの六波羅蜜(=六度)を行なう者は」とある。つまり、六波羅蜜の福徳の力によって、ますます観心が進むのである。

五品の五つめは正行六度品(しょうぎょうろくどほん)である。『法華経』に「もしある人がこの『法華経』を読誦し、他人のために説き、またよく戒律を保つ者は」とある。つまり、このような人は、自行・化他・事理が具足し、観心が滞ることなく、ますます前に勝ることは何にも喩えられないのである。

この五品の位は、完全に五住煩悩(ごじゅうぼんのう・前に述べられた「四住煩悩」に無明住地(=無明)加えた五つ)を抑える外凡の位である。別教の十信の位と同じである。