大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

『摩訶止観』抄訳 その2

『摩訶止観』巻第三の上 「止観の名義」の段より

 

第二章 止観の名義

第二章として、止観の名称を解釈する。止観についての大意はすでに説いた。ではまたどのような意義をもって、止観の名称を立てるのか。これには概略的に四つある。

一つめは相待(そうだい)であり、二つめは絶待(ぜつだい)であり、三つめは異名をあげて融合させ、四つめは三徳に通じさせる。

(注:今回は、四つのうちの最初の二つのみを現代語訳する)。

 

◎相待止観

一つめの相待とは、次の通りである。相待止観における「止」と「観」には、それぞれ三つの意味がある。

〇相待の止の意味

まず、「止」には息(や)むという意味があり、停(とど)まるという意味があり、不止に対する止の意味がある。

息むとは、あらゆる悪しき感覚や観念、妄想思想などが、寂然として息むのである。『維摩経』には、「攀縁(はんねん)とは何か。縁に攀(すが)ること、すなわち、三界に執着を持つということである。攀縁を息(や)めるとは何か。心に得るところがないことである」とある。これは、破る対象を名称としている。これが止息の意味である。

停まるとは、心が真理を諦めることによって、念が繫(つな)がることが成就し、停まって動かないことでる。『仁王経』には、「理法に入る般若を住と名付ける」とある。『大品般若経』には、「不住の法をもって般若波羅蜜の中に住む」とある。これは、破る主体を名称としている。これが停止の意味である(注:一般的に停止とは止まることを意味するが、ここでは留まるという意味であり、そのため、住むという言葉が用いられている)。

不止に対する止とは、言葉としては上にあげた二つに通じるといっても、意味は全く異なっている。なぜならば、上にあげた二つの止は、生死の流転に対する涅槃において止息を述べているのである。これは、心は理法の外にあるために、般若において停止を述べることである。これは、智慧によって迷いを断つことにおいて、通じて相待(=相対)することを述べるのである。しかしここでは、それとは別に、真理の理法において相待を述べる。無明即法性、法性即無明である。無明は止でもなく不止でもないが、同時に無明を不止と呼ぶ。法性もまた止でもなく不止でもないが、しかも法性を止と呼ぶ。これは無明の不止に対して法性を止と呼ぶのである。さまざまな経典に「法性は生じるのでもなく滅するのでもなく、しかも法性は寂滅である」とあり、「法性は汚れているのでもなく、清らかであるのでもなく、しかも法性は清浄である」というように、不止に対してこそ止が明らかにされるのである(注:つまり、常識的には不止とは、止を否定することであるが、不止によってこそ止があるため、不止と止はあくまでも相対しているまま、不止はそのまま止なのだということである。これを『法華玄義』では、相待妙と表現されている)。

〇相待の観の意味

相待止観における「観」にもまた三つの意味がある。一つめは、智慧によって心を観じることにより、煩悩を破り滅することであり、二つめは、実相に到達することであり、三つめは、不観に対する観の意味がある。

煩悩を破り滅するとは、智慧の鋭い働きは、煩悩を滅ぼし尽くすのである。『涅槃経』には、「鋭い鍬をもって地面を削れば、盤石、砂や瓦礫、そしてすぐに金剛(ダイヤモンドの原石)に至る」とある。『法華経』には、「高原に井戸を得るために土を掘り進めて、最初は乾燥した土を見るが、そのまま掘り進めれば、ついにやがて湿った泥に至って水が近いことを知る」とある。これは、煩悩を破る働きによって名付けることであり、煩悩を破り滅するというのである。

実相に到達するとは、観の智慧をもって真理に通じて一体となることである。『瑞応経』には、「心をとどめて本源に達するために、沙門と呼ばれる」とある。『大智度論』には、「清浄の心は常に一つであるので、すなわちよく般若を見る」とある。これは観を修す主体について名付けられているために、実相に到達するというのである。

不観に対する観とは、言葉としては上にあげた二つに通じるといっても、意味は全く異なっている。上にあげた二つの観は、共通して生死に翻弄されていることに対して破り滅することを述べるのであり、迷いの暗闇に対して観を用いて真理に達することを述べるのである。これは共通して、智慧と煩悩を断じることについて、相待(=相対)して観を明らかにするのである。しかしここでは、それとは別に、真理の理法において相待を述べる。無明即法性、法性即無明である。無明は観でもなく不観でもないが、同時に無明を不観とし、法性はまた観でもなく不観でもないが、しかも法性を観と呼ぶ。さまざまな経典に、「法性は明でもなく闇でもなく、しかも法性を明と呼び、第一義である空は智でもなく愚でもなく、しかも第一義である空を智と呼ぶ」とある。これが不観に対して観を明らかにすることである(注:これも止の箇所の注で述べたように、あくまでも相対したままで、不観は観であり観は不観であるという、相待妙である)。

したがって、止観という名称は、それぞれの三つの意味において名付けられているのである。

 

◎絶待止観

二つめの絶待(=絶対)とは、すなわち、前にあげた相待止観を破ることである(注:相待止観を否定するということではなく、相対的次元ではなく絶対的次元において止観を述べるという意味である)。まず、横(注:他との関係が生じている空間という意味)において破り、次に竪(注:その教えと悟りの高さ深さという意味)において破る。

〇横に破る

先に述べた止の「息む」の止は、破る主体において名称がつけられているので、境を照らすのが主体であり正であり、迷いを除くことが傍である。このように、離れるべき迷いがあるために名称がつけられているわけであり、つまり名称は傍によって生じていることであり、すなわち他性(あくまでも他によって表われるということ)に陥る。同じように、止の「停まる」の止は、破られる対象において名称がつけられているので、境を照らすのが主体であり正であり、迷いを除くことが傍である。このように、照らす主体があるといえば、名称は智慧によって生じていることになる。すなわち自性(自らのみによって表われるということ)に陥る。もし妄想が息むために止というのではなく、理法に停まるために止というのでもなく、智慧と煩悩を断じることの因縁において止というならば、名称はこの二つが合わさって生じることになる。すなわち共性(相互の働きによって表われるということ)に陥る。したがって、龍樹は『中論』で、「諸法は自ら生じるのでもなく、また他によって生じるのでもなく、共に生じるのでもなく、因がなくて生じるのでもない。このために無生という」と述べている。このように真理は無生であるが、その無生に至る止観は、この四つの句によって名付けられるものだろうか。この四句によって名付けられるのならば、やはり因があってこそ生じる相対的次元であることになる。常識的にも考えることができ、説くことができる。したがって、これは煩悩の生である。破るべきであり、壊すべきである。起こったり滅したりして流動する生は、どうして停の止と言えるだろうか。迷っていて真理から顛倒している生は、どうして真理に到達している観と言えるだろうか。

〇竪に破る

もし四句より生じれば、すなわち生生(生じるものが生じる)であり、止観ではない。もしよく見思惑を止息し、真諦に停住すれば、すなわち生生に対して生不生(生じるものは生じていない)の止観を説くのみである。もし空心をもって仮に入り、塵沙惑を止息し、俗諦の理法に停住すれば、すなわち生不生に対して不生生(生じていないものが生じている)の止観を説くのみである。もし無明を止息し、心を中道の理法に停めれば、すなわち生死と涅槃の二辺の不止に対して、止観を説くのみである。みなこれは、相対的なものであり、思議することができ、煩悩を生じ、破るべきであり、壊すべきである。なおこれは止ではない。どうして不止であろうか。なお観でもない。どうして不観であろうか。なぜならば、執着を払っても尽きることがないからである。言葉で表現される道にはきりがなく、業による果は絶えないからである(注:つまり、他との関係性を考慮に入れず、自らの展開のみを見ても、その展開は留まることがなく、いつまでも究極的な次元に到達することがない、ということである)。

ここで、絶待止観というのは、横竪のあらゆる相対的なことを絶し、あらゆる思議を絶し、あらゆる煩悩、あらゆる業、あらゆる果を絶し、あらゆる教え、観心、証などを絶するのである。ことごとく不生である。このため、止と名付ける。この止もまた不可得である。観は明らかな対象がない「如」の境に溶け込んで消える。境はすでに寂滅清浄であるが、なお清浄もないので、そこにどうして観があるだろうか。なお止観すらないのである。どうして、不止観に相対する止観を説き、止観に相対する不止観を説き、さらに止と不止に相対する非止と非不止を説くことあろうか。このために知ることができる。止であっても、不止であっても、それらはみな不可得である。非止と非不止もまた不可得である(注:ここで、不止観、不止、非不止などの言葉があるが、これらが何か特定のものや概念を指しているわけではなく、ただ言葉の上で相対するものということであげられているに過ぎない)。相対的なことが絶していれば、すなわち有為ではなく、四句をもって思うことはできない。このために、言葉に説く道ではなく、心の認識作用の対象である境ではなく、すでに名称も相もなく、煩悩も生じなければ、すなわち生死なく、破り壊す必要もない。絶を滅し、滅を絶するために、絶待の止と名付ける。顛倒の想念が断じられるために、絶待の観と名付ける。またこれは、有為を絶する止観であり、生死を絶する止観である。

絶待止観は、すなわち説くことはできない。もし四悉檀がその因縁となるならば、説くことはできるはずである。もし世界悉檀がその因縁となるならば、さまざまに異なっているこの世の事物にことよせて説き、もし為人悉檀がその因縁となるならば、共通の三徳(人が目指すべき仏の本質を三つの面から説いたもの。法身・般若・解脱)を用いて説き、もし対治悉檀がその因縁となるならば(注:あり得ないことだが、絶待が相待に相対していれば、ということ)、相待をもって説き、もし第一義悉檀がその因縁となるならば(注:絶待止観は究極的な止観なのだ、という大前提があるならば、ということ)、絶待をもって説く。そして説いて止観とするのである。

この名称は、内、外、あるいはその中間にもない。また常にあるのでもなく、この名称は、留まっているのではなく、留まっていないのでもなく、この名称は、先にあげた横の四句、竪の四句の中のもないために、この名称は留まっているのではないという。また、横なく竪もない中にもないために、また留まっていないのでもないという。この名称は不可得であるために、絶待止観と名付ける。また不思議の止観と名付け、また無生の止観と名付け、また一大事の止観と名付ける。したがって、このような重大なことは、小さな事柄とは相対しない。たとえば、虚空は、小さい空に比較して大きいというのではないようなものである。止観もまたそのようである。愚かな乱れたことによって止観と名付けるのではない。相対するものがなく、独立して一つであるために、絶待止観と名付けるのである。

世の人々は、あらゆる言葉によって絶待の意義を解釈するが、いつまでも絶待ということを得ることはできない。それはどうしてだろうか。凡人の感情は、目まぐるしく変わり、さまざまに推測し考え、悟りと悟らないこと、心と心でないこと、凡人と聖人とを区別をする。絶ということは不絶に相対し、不思議は思議に相対し、車が回り続けるように相対し続け、絶に到達することはない。もし理解して言葉をなくせば、心の働きも断じられ、智慧に従って妙を悟り、さらに分別することがなくなる。また、悟りと悟らないこと、聖と聖でないこと、心と心ではないこと、思議と不思議などを言わない。あらゆる妄想、理法に働きかける分別は、みな相対である。真実の智慧が開き発し、このあらゆる相対を絶すれば、絶もまた絶せられる。盛んに燃えている木のようなものを絶待と名付ける。このために『維摩経』には、「諸法は相対していない。そして、一念さえも留まらないためである」とあるのは、この意味である。

問う:(この問うと答えるは、便宜上付けた)もしそうならば、絶待は究極的な聖境としなければならない。初心者にはとうてい縁がないものであろう。

答える:今、六即(ろくそく・四教の中の円教の六つの階位。最初の理即が、全く仏法を知らない凡人であっても、真理の中にいるということであるように、すべては真理と異なっていない、ということを六つの「即」で表わしている)をもってこれを述べれば、初心においても何か欠けているわけでもなく、聖境においても満ち溢れているということでもない。