大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

開目抄 その8

法華経』の「方便品」において、概略的に開三顕一(注:三乗すべての人が一仏乗となる、すなわち、声聞、縁覚、菩薩のすべてが仏になれる、ということ)を説かれた時、仏は、概略的に一念三千の心中の本懐を述べられた(注:天台大師は、特に止観の実践修行の中のこととして、一念に三千(すべてという意味)が備わっていることを語っている。一念にすべてが備わっているので、一念こそ、観心修行の対象となる、という意味である。しかし、天台大師は、一念三千という言葉自体は用いていない。一念三千という言葉を用いて、この教えが、天台教学の中心に位置すると述べたのが、妙楽大師湛然である)。

しかし、このような教えは初めて聞くことなので、ホトトギスの鳴き声を寝ぼけた者が突然聞いて何事かと驚くように、月が山から半分ほど出ても薄雲が覆ってしまっているように、聞く者ははっきりわからないので、舎利弗などは驚いて、諸天・竜神・大菩薩たちを集めて、「諸天竜神など、その数は大河の砂の数ほどいて、仏となることを求める諸の菩薩も八万もの数がいます。また、諸の万億の国の転輪聖王も来て、合掌して敬う心をもって、具足の道を聞くことを願っています」と言って、教えを求めた。この文の意味は、四味(乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味)三教(蔵教・通教・別教)でも今まで聞いたことのない法門を聞きたいと求めていることである。

(注:これ以降は、『妙法蓮華経』の題目の梵語である「薩達磨分陀利伽蘇多攬」(サッダルマ・プンダリーカ・スートラの音写)についての説明となる)

この文に、「具足の道を聞くことを願っています」とあるのは、『涅槃経』に、「薩とは具足の意味である」とあり、『無依無得大乗四論玄義記(唐の慧均著)』に、「沙とは訳して六という。胡国の法では、六をもって具足の義とする」とあり、吉蔵の疏には、「沙とは訳して具足とする」とある。天台大師の『法華玄義』第八巻には、「薩とは梵語であり、妙と訳す」となる。また、釈迦から教えを委ねられた第十三代目であり、真言・華厳・諸宗の元祖であり、本地は法雲自在王如来であり、迹では竜猛菩薩であり、初地の位に上った大聖は、『大智度論』千巻の肝心として「薩とは六である」と述べている。『妙法蓮華経』というのは漢語である。月支国では、「薩達磨分陀利伽蘇多攬」という。善無畏三蔵は、『法華経』の肝心の真言として、「曩謨三曼陀没駄南(ナーマクサンマンダーバーサラナン・すべての仏に帰命します)オン(三身如来)アアアンナク(開示悟入)(一切仏)キノウ(知)サキシュビヤ(見)ギャギャノウサンソバ(如虚空性)アラキシャニ(離塵相也)サッダルマ(正法也)プンダリーキャ(白蓮華)スートラ(経)ジャク(入)ウン(遍)バン(住)コク(歓喜)バザラ(堅固)アラキシャマン(擁護)ウン(空無相無願)ソワカ(決定成就)」といっている。この真言は、南インドの鉄塔の中から発見された『法華経』の肝心の真言である。この真言の中に、サッダルマとあるのは正法という意味である。サッ(薩)というのは正という意味であり、正とは妙である。妙とは正である。正法華、妙法華はこれである。また『妙法蓮華経』の上に、南無の二字を置く。「南無妙法蓮華経」がこれである。妙とは、具足である。六とは、六波羅蜜を万行することである。諸の菩薩は六波羅蜜の万行を具足することを聞こうと願ったのである。具とは、十界互具のことである。足とは、一界に十界あればその一界に他の九界があり、それだけで満足であるという意義である。この経典の一部・八巻・二十八品・六万九千三百八十四字は、一つ一つにみな、妙の一字を備えて、三十二相八十種好の仏陀そのものである。十界にみな自己の一界に仏界を現わすのである。妙楽大師は、「なお仏果を具す。他の世界も同様である」と述べている。

仏は以上の要請に、「衆生に対して、仏の知見を開かせようとするのだ」と答えられた。衆生というのは舎利弗、一闡提、九法界のすべてであるので、四弘誓願衆生無辺誓願度を満足するのである。「私は本誓願を立てる。一切の衆生に対して、私と同様に、異なるところがないようにと願う。私が昔、誓願した通り、今はすでに満足している」とある。諸の大菩薩・諸天たちは、この法門を聞いて理解し解釈して、「私たちは昔より今まで、数多くの世尊の教えを聞いてきましたが、未だかつて、このような深妙な優れた教えは聞いたことがありません」と言っている。伝教大師は、「私たちは昔より今まで、数多くの世尊の教えを聞いてきたとは、昔、『法華経』が説かれる以前の、『華厳経』などの大法が説かれたことを聞いたという意味である。未だかつて、このような深妙な優れた教えは聞いたことがないとは、未だ『法華経』の唯一仏乗の教を聞いていないという意味である」と述べている。『華厳経』・「方等経」・『般若経』・『深密経』・『大日経』などの大河の砂の数ほどの諸大乗経典では、未だ一代の肝心である一念三千の大綱・骨髄たる二乗作仏・久遠実成などを聞くことができない、ということだと理解できる。

(以上で『開目抄』上は終わる)