大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

報恩抄 その3

陳・隋の世も代わって、唐の世となりました。章安大師(章安灌頂。天台大師の弟子であり、中国天台宗第四祖と数えられる。天台大師の講義の多くを筆記して残した)も入滅られ、天台の仏法がだんだん失われていく中、唐の太宗の時代に玄奘三蔵という人がいて、貞観三年に月氏国(クシャーナ王朝。北インド一帯を領土とした国)に入って、同十九年に中国に帰りましたが、月氏国の仏法を学び尽くして法相宗という宗派を伝えました。この宗は、天台宗とは水と火のようなものです。しかし、天台大師の時代にはなかった『深密経』・『瑜伽論』・『唯識論』などを伝えて、『法華経』は他のすべての経典よりは勝れているけれども、『深密経』には劣ると言いました。それを天台大師は知らなかったのですから、天台の末学たちは、智慧が薄いので、それもそうだと思ってしまいました。また、太宗は賢王です。玄奘に対する帰依は浅いものではありませんでした。このため、玄奘に言いたいことがある者でも、世の常のごとく、その権威を恐れて言う人はいませんでした。『法華経』を打ち捨てて、声聞、縁覚、菩薩の区別は真実であって、すべてが仏になれるという一乗は方便であり、菩薩定性・縁覚定性・声聞定性・不定性(三乗のどれにも定まらない本性)・無性(もともと悟りの本性がない者)の五性は、それぞれ別々である(五性各別・ごしょうかくべつ)とされたことは残念なことです。インドより伝わったとはいえ、月氏国の外道が中国に渡って来たのでしょうか。『法華経』は方便、『深密経』は真実であると言えば、釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏の真実の言葉もかえって空しくなり、玄奘・慈恩こそ時の生身の仏であるのでしょうか。

その後、則天皇后の時代に、前に天台大師に責められた『華厳経(六十華厳)』に、また重ねて新訳の『華厳経(八十華厳)』が伝わったので、昔の恨みを晴らすために、新訳の『華厳経』をもって、天台大師に責められた旧訳の『華厳経』を補って、華厳宗という宗派を、法蔵法師という人が立てました。この宗派は、『華厳経』を根本法輪、『法華経』を枝末法輪としています。天台大師以前の南と北の諸説は一に華厳・二に涅槃・三に法華であり、天台大師は一に法華・二に涅槃・三に華厳ですが、この華厳宗は、一に華厳・二に法華・三に涅槃と言っています。

この後、玄宗皇帝の時代に、インドより善無畏三蔵が『大日経』・『蘇悉地経』を伝えました。続いて金剛智三蔵は、『金剛頂経』を伝えました。また、金剛智三蔵に不空三蔵という弟子がいました。この三人は月氏国の人で、出身も高貴であり、その上、人柄も中国の僧に似ていませんでした。その教えも、今まで聞いたこともないようなもので、後漢からその時までなかった印と真言ということを添えて教えを説いたので、天子も頭を下げ、万民も手を合わせました。この人々の教えは次の通りです。『華厳経』・『深密経』・『般若経』・『涅槃経』・『法華経』などの勝劣は顕教の中のことであり、釈迦如来の教えである。この『大日経』などは、大日法王である大日如来の直々の言葉である。他の経典は、一般人の言葉、この経典は天子の一言である。『華厳経』・『涅槃経』などは、『大日経』に梯子を立てても及ばない。ただ『法華経』ばかりは、『大日経』に相似の経典である。しかしその経典は、釈迦如来の説であり、民にとっての正しい言葉、この経典は天子の正しい言葉である。言葉は似ているけれど、対象となる人は雲泥の違いである。たとえば、濁った水に映る月と清い水に映る月のようなものである。月の影は同じだが、水に清濁があるなどと言えば、この誤りを指摘する者もありませんでした。諸宗みな落ち伏して真言宗(注:真言宗はこの密教を日本に伝えた弘法大師空海が日本において開いた宗派であり、この時点ではあくまでも密教と呼ぶべきである)に傾きました。善無畏と金剛智が亡くなった後、不空三蔵はまた月氏国に帰って、『菩提心論』という論書を伝え、いよいよ真言宗は盛んとなりました。

ただし、妙楽大師(荊渓湛然・けいけいたんねん。711~782。中国天台第六祖。天台中興の祖と言われる)という人がいました。天台大師より六代先の約二百年後ですが、智慧賢い人であり、天台大師の解釈を明らかにしました。天台大師の解釈の主旨においては、後に伝わった『深密経』・法相宗、また初めて中国で立てられた華厳宗、『大日経』の真言宗に対しても、『法華経』は勝れている。それを知らないのは、智慧が及ばないのか、あるいは人を恐れているのか、あるいは王の威厳を恐れているのか。もしそうであるならば、天台大師の正しい教えはすでに失われている。また、陳・隋以前の南北の邪義よりもひどいものだ、と言って、天台三大部の『摩訶止観』・『法華玄義』・『法華文句』のそれぞれの合計三十巻にも及ぶ注釈書を作りました。それは、『止観輔行伝弘決』・『法華玄義釈籤』・『法華文句記』です。この合計三十巻の文は、天台三大部の各書の重複したところを削り、意味が不明瞭な箇所を明らかにしたばかりではなく、これらは、天台大師の時代でなかったためにその責めを逃れていた法相宗と、華厳宗と、真言宗とを、一度に論破した書です。

また、日本国には、人王第三十代欽明天皇の時代の十三年壬申十月十三日に、百済国より一切経・釈迦仏の像が伝わりました。また、用明天皇の時代に聖徳太子が仏法を読み始め、和気妹子という臣下を漢土に遣わして、前世で持っていた一巻の『法華経』を取り寄せ、持経と定め、その後の人王第三十七代の孝徳天皇の時代に、三論宗華厳宗法相宗倶舎宗成実宗が伝わりました。人王四十五代の聖武天皇の時代には律宗が伝わりました。これで六宗となりました。孝徳天皇より人王第五十代の桓武天皇に至るまでは十四代一百二十余年の間は天台宗真言宗密教)の二宗はありませんでした。

桓武天皇の時代に、最澄という若い僧がいました。山階寺の行表僧正の弟子です。法相宗を始めとして六宗を習い究めていました。しかし、仏法に対して究めたという思いがないまま、華厳宗の法蔵法師が記した『起信論』の疏を読んでいると、そこに天台大師の釈が引用されていました。この疏こそ深い真理があるようだ、この日本に伝わっているだろうか、まだ伝わっていないのだろうかと、ある人に聞いてみると、その人は、唐の揚州竜興寺の僧鑑真和尚が天台の末学である道暹律師の弟子であり、天宝年間の末に日本国に来られて、小乗の戒律を広められたが、天台大師の書を持ち来ていながら、広めることはしなかった、人王第四十五代聖武天皇の時代だったと聞きました。

さっそく最澄はその書を見ることを願い出て、手に取って読んでみたところ、一回読んだだけで、生死の迷いが覚めてしまいました。さらにこの書をもって六宗の主旨を調べてみると、それらすべてが邪見であることが明らかになりました。すぐに願を発して、日本国の人は皆、謗法の者の檀家なのか、これでは天下が必ず乱れるであろうと、六宗を非難されれば、七大寺六宗の学者たちは蜂起して、京の中に烏合し、天下は騒がしくなりました。七大寺六宗の人々の悪心は盛んでした。そのような中、延暦二十一年正月十九日に桓武天皇は高雄寺に行幸され、七寺の学者十四人、善議・勝猷・奉基・寵忍・賢玉・安福・勤操・修円・慈誥・玄耀・歳光・道証・光証・観敏などの十数人を招集されました。華厳・三論・法相などの人々は、それぞれの宗派の祖師の解釈を主張しました。最澄上人は六宗の人々の所説を一つ一つ取り上げて、本経本論ならびに諸経諸論を指し合わせながら責めたところ、誰も一言も反論できず、まるで口が鼻のようになるばかりでした。天皇は驚かれて、さらに委細に知ろうとされて、再び勅宣を下して十四人を責められたので、彼らは承伏の謝表を奉りました。その書には、「七箇の大寺、六宗の学匠たちは、初めて至極の教えを悟りました」とあります。また、「聖徳太子が仏法を広められてから今までの約二百年間、講じられた経論は数多くありました。それらは、それぞれの教えを互いに争って、その疑は未だに解けませんでした。そして、この最妙の円宗は未だに広まっていません」とあり、また、「三論宗法相宗は、長年互いに争っていましたが、それも氷のように解け、明らかに解決したことは、雲や霧が去って、太陽や月や星の光を見るようです」とあります。最澄和尚は、十四人の主張を次のように批判しています。それぞれの学者は、一つの教えを講じるために、まるで教えの太鼓を深い谷の中で鳴らしているようなものである。語る者も聴く者も、三乗が別々であるという教えの道に徘徊し、真理の旗を高い峰の上に立てている。大人や子どもの、この世の煩悩を破っているが、究極的な悟りに至るためには、気の遠くなるほどの転生を重ねなければならない道を改めない。それはまるで、せっかく真実の白牛車を得ても、他の小さな車と混ぜてしまっているようなものである。そのような教では、どうして悟りを求める心を起こした時から、正しく最初から最後までを悟ることができるだろうか。

和気広世(わけのひろよ・和気清麻呂の息子。原文では弘世となっているが、広世が正しいと思われる)と真綱(まつな・広世の弟)の二人の臣下は次のように言いました。「霊鷲山(りょうじゅせん・『法華経』などの経典が説かれた場所とされる)の妙法を師である南岳慧思に聞き、総持(そうじ・陀羅尼のことだとされるが、この場合は、真理を悟ってしっかりと自分のものとしているという意味と考えられる)の妙悟を天台山に開く。この天台大師の一乗の教えが停滞していることを嘆き、三諦の教えが未だに表わされていないことを悲しむ」。また、十四人の学僧たちは、「良い論議の場所に連ねさせていただき、良い命の糧をいただいた。それは、奇しい言葉を聞いたからである。これは前世からの深い因縁によって、この聖なる世に生まれて来たことでなくて何であろうか」と言いました。この十四人の言葉は、華厳宗の法蔵・審祥、三論宗の嘉祥・観勒、法相宗の慈恩・道昭、律宗道宣・鑑真などの中国と日本の祖師たちの教えは、瓶は変わったけれど、水は一つだということです。このように、この十四人が、その邪義を捨てて伝教大師の『法華経』に帰伏した上は、その後の末代の人が、どうして『華厳経』・『般若経』・『深密経』などが『法華経』に超過していると言うのでしょうか。この学者たちは、当然、小乗の成実宗倶舎宗律宗の三宗を学んでいる。大乗の華厳宗三論宗法相宗の三宗の学者たちがこのように破られた以上、小乗については言うまでもない。しかし、このことを知らない者は、六宗は未だに破られていないと思っている。それは、たとえば盲目の人が天の太陽や月を見ることができず、聾唖の人が雷の音を聞くことができないために、天に太陽や月はない、空に音はしないと思っているようなものである。

真言宗という宗派については、日本人王第四十四代元正天皇の時代に、善無畏三蔵が『大日経』を伝えたが、布教はしないで、中国に帰りました(注:これは史実ではなく、日蓮上人もこれについては疑問を持っている)。また、玄昉(げんぼう)などが、『大日経義釈』十四巻を伝えました。また、東大寺の得清(生没年不詳。日本から中国に渡ったとされる)が伝えました。これらを伝教大師はご覧になっていましたが、『大日経』と『法華経』の勝劣はどうであろうかと思い、ずっと疑問を抱いておられましたが、延暦二十三年七月に唐に渡られ、西明寺の道邃和尚、仏瀧寺の行満に会われて、天台の止観を学び、円頓の大いなる戒を伝受され、霊感寺の順暁和尚に会って真言密教のこと)を伝えられ、同じ延暦二十四年六月に帰朝されて、桓武天皇に対面され、桓武天皇は宣旨を下して六宗の学匠に止観と真言を習わせて、この学びを七大寺に置かれました。真言と天台の止観の二宗の勝劣については、中国に多くの説がありますが、また『大日経義釈』には、理法は同じであるが、事象においては『大日経』が勝っていると記されており、伝教大師はその善無畏三蔵の説は誤りである、『大日経』は『法華経』より劣っているとして、密教を独立した宗派として八宗とはさせられませんでした。つまり、真言宗の名を削って、法華宗(=天台宗)の内に入れて七宗とし、『大日経』を法華天台宗の補助的な経典として、『華厳経』・『大品般若経』・『涅槃経』などと同列に置きました。

そして、非常に大切なことである円頓の大乗別受戒の大戒壇を、日本に建てるべきだ、立てる必要はない、という論争の中にあったためなのか、真言宗天台宗の二宗の勝劣は弟子にも明らかに教えられなかったようです。ただ、『依憑集』という書の中で次のようにあります。まさしく真言宗は法華天台宗の正しい教えを盗み取り、『大日経』の解釈に入れて理法は同じだとした。したがって、その宗派は、天台宗より劣った宗派である。ましてや、不空三蔵は善無畏・金剛智が亡くなった後、月氏国に入ったが、竜智菩薩に会った時、月氏国には仏の真意を明らかにした論釈はありません。中国に天台という人の解釈こそ邪正を選び、偏円を明らかにしたものであるそうです。大変恐れ入りますが、月氏国に持って来ていただきたい、と丁寧に願われたと、不空の弟子の含光という者が妙楽大師に語ったということを、その『法華文句記』第十巻の末に引用している、として、その文を、この『依憑集』に引用しています。『法華経』より『大日経』は劣るということが、伝教大師の主張だということは明らかです。そうであるならば、釈迦如来・天台大師・妙楽大師・伝教大師のお心はみな同じであり、『大日経』などの他の諸経典よりも、『法華経』が勝れているということは、明らかなことです。また、真言宗の元祖ともされる竜樹菩薩のお心も同じです。『大智度論』をよくよく調べれば、このことは明らかなはずですが、不空が誤ったことを書いた『菩提心論』に人はみなだまされて、このことに迷っているようです。

(つづく)