大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

開目抄 その2

一念三千の法門は、ただ『法華経』の本門の「如来寿量品」の文の底に隠されている。竜樹・天親は知っていながらも、まだ時が至っていないとして明らかにしなかった。ただ師と仰ぐ天台智者大師のみがこれを説かれた。

(注:一念三千(いちねんさんぜん)とは、天台大師が実践修行である止観(しかん・止は乱れた心を収めること、観は心を観察すること。見た目は坐禅と同じ瞑想の形を取るが、内心はさまざまな教えに従って心をコントロールしていくことが求められる。現在知られる無念無想の坐禅とは全く異なっている)の中の用語である。すなわち、一瞬の心の動きの中にも、三千という数字で表わされたすべての事象が含まれているということである。一念にすべてが含まれているわけであるから、止観を修して心を観察することが、すべての真理を見抜いて悟りを得ることにつながるわけである。しかし、一念三千という用語そのものは、天台大師は説いておらず、天台の中興の祖といわれる妙楽大師湛然(みょうらくだいしたんねん・荊渓湛然(けいけいたんねん)といわれる)が、その著書である『止観輔行伝弘決(しかんぶぎょうでんぐけつ)』の中で、天台教学の中心にある言葉として記している。天台大師は理論的には、一念三千と同じ教えを繰り返し多くの書の多くの箇所で述べているので、これはあくまでも用語の問題である。ただし、一念三千の言葉は、あくまでも止観実践の中でのみ意味をなすものであり、止観と関係のない場面でこの言葉を使用することは大いなる誤りである)。

一念三千は十界互具(じゅっかいごぐ)より始まる。

(注:十界互具も天台教学の中心的な教理である。そしてこれは、天台大師が重要用語として多用している。日蓮上人は、『一念三千法門』の中で、次のように記している。「十界の衆生は互いに他の十界を具足する。合わせて百界である。百界にそれぞれ十如を具足すれば千如である。この千如是に衆生世間・国土世間・五陰世間を具足すれば三千世間である」。十界とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道に、声聞(しょうもん・歴史的釈迦の弟子。仏の声を聞くという意味)・縁覚(えんがく・仏の弟子とはならず、一人で修行して悟りを開いた者のこと。因縁の法則を悟ったという意味)・菩薩・仏の四聖(ししょう)を加えた十種の世界のことである。今の一生の生きざまによって、これらの世界に転生する。ただし、四聖には悟りを開かなければ転生することはできない。しかし、真理の面から見れば、すでにこの十界の各世界に他の世界が含まれていると天台教学ではいう。そのため、それを十界に十界を掛けた百界として表現する。さらに、十如是(じゅうにょぜ)という教えがある。これは『法華経』の「方便品」に記されたものであり、ここでは詳細は省略するが、すべての事象の在り方を十種に分けて見た見方である。すなわちこの百界に十如是を掛けて千如是とする。さらに、三世間という見方をここに加える。それは、衆生世間(人々が集まってできる社会的世界)・国土世間(一つの国としてまとまった世界)・五陰世間(五陰とは五蘊(ごうん)ともいい、人間の認識が生じる過程を五つに分けたものである。すなわち、色(しき・自分がここにいて自分でないものが周りにあるという、認識の最初の心理的動きのこと)、受(じゅ・周りにあるものが何であるか知ろうとする感受作用)、想(そう・感受されたことによって起こされる想念)、行(ぎょう・想念に基づいて次の行動を決定する意思)、識(しき・色から行までが生じたことを認識すること。これがいわゆる一般的に言われる認識である)の五つの過程をいう。そして仏教では、人間は肉体ではなく、この五蘊(五陰)こそ人間そのものであるとする。つまり、人間は認識主体なのである。そのため、人間個人の世界を五陰世間と表現する)の三つであり、人間の存在する世界をこの三種類とする。そして、千如是にこの三をかけて、三千となり、三千世間という。上にも述べたように、すべての事象をこの三千という数字で表わし、この三千が一念に備わっているということで、一念三千という)。

法相宗三論宗は、八界を立てて十界を知らない。ましてや十界互具はなおさらである。倶舎宗成実宗律宗宗などは『阿含経』によっている。したがって、六界は説くが四界(=四聖)を知らない。「十方唯有一仏」と言って、「一方有仏」でさえも説かず、それならば、「一切有情悉有仏性」は説くわけがない。一人の仏性さえ認めない。しかし、律宗成実宗などが、「十方有仏」・「有仏性」などと言っていることは、釈迦入滅後の人師たちが、大乗の義を自宗に盗み入れたことによる。たとえば、外典・外道などについては、釈迦が世に出る前の外道の執見はまだ浅い。釈迦出世以後の外道は、仏教を聞いて見て、自宗の非を知り、巧妙なたくらみの心が生じて、仏教を盗み取り、自宗に入れているわけであるから、邪見がさらに深くなった。「附仏教」とか「学仏法成」などと言われるものはこれである。外典も同様である。中国に仏法がまだ伝わっていない時の儒家道家は、悠々として子供のようにはかないものであったが、後漢以後、釈迦の教えが伝わって対論の後、釈迦の教えが次第に流布するほどに、破戒して僧侶をやめて家に帰った者が、俗世間に心を合わせ、儒道の内に釈迦の教えを盗み入れたりしたのである。

天台大師の『摩訶止観』第五巻には、「今の世に多く悪魔の比丘がいて、戒を退き家に帰り、罰せられることを恐れて、さらに道士に戻っている。また名利を求めて荘老を誇り、仏法の義をもって盗んで邪典に入れ、高い教えを下げ下等な教えにつけ、尊い教えを砕いて賤しい教えに入れ、それらを同じとしている」とある。また、この箇所の解説として、妙楽大師湛然の『止観輔行伝弘決』には、「比丘の身となって仏法を破滅する。「戒を退き家に帰る」とは、衛国の元嵩(げんすい)のようである。すなわち、在家の身をもって仏法を破壊する。この人は正教を盗んで邪典に付加した。「高い教えを下げ下等な教えにつける」とは、道士の心をもって、道教は仏教の概要であるとし、邪教と正教を同じとしている。全く意味のないことである。かつて仏法に入って正教を盗んで邪教を助け、八万法蔵・十二部経の高い教えを押し下げて、五千・二篇の下等な教えにつけ、これによって邪教の経典を解釈することを、摧尊入卑(さいそんにゅうひ)と名付ける」とある。以上の要旨については、この釈を見るべきである。

仏教においても、このようなことはある。後漢の永平年間に仏教が中国に伝えられ、それまでの邪典が破られ、内典(=仏典)が広まった。内典に南部に三種、北部に七種の異なった執着の教えが起こって蘭や菊のように一時期華やかであったが、陳・隋の天台智者大師に打ち破られて、仏法が再び衆生を救うことができた。その後、法相宗真言宗が中国から伝わり、華厳宗が起こった。これらの宗派中では、法相宗はもっぱら天台宗に敵対する宗派であり、教えは水と火のようなものである(注:法相宗唯識派であるので、いわゆる中観派である天台教学とはもともと相容れない)。しかし、法相宗玄奘三蔵とその弟子の慈恩大師は、委細に天台大師の解釈を見て、自宗の邪見が翻され、自宗を捨てることはないまま、その心は天台大師に帰伏したと見える。華厳宗真言宗とは、もとは権経(方便の経典)・権宗(方便の宗派)である。善無畏三蔵・金剛智三蔵などは、天台大師の一念三千の義を盗み取って、自宗の肝心とし、その上に手印と真言を加へて天台教学以上だとしている。この子細を知らない学者たちは、インドから『大日経』に一念三千の法門があるのだと思っている。華厳宗は、澄観の時、『華厳経』の「心如工画師」の文の解釈に、天台の一念三千の法門を盗みいれた。人はこれを知らない。日本には華厳などの六宗が、天台宗真言宗以前に伝わっていた。華厳宗三論宗法相宗は互いに論争し、その教えは水と火のようであった。伝教大師がこの国に出て、六宗の邪見を破るのみならず、真言宗が、天台大師が明らかにした『法華経』の理法を盗み取って、自宗の極みとすることが起こった。伝教大師は、あらゆる宗派の人が考え出した執着を捨てて、もっぱら経文を前にして責められたので、六宗の高徳八人・十二人・十四人・三百人余り、並びに弘法大師なども責め落されて、日本のすべての人が天台宗に帰伏し、南都・東寺・日本一州の山寺、みな叡山の末寺となった(注:もちろんこのようなことはない。六宗の僧侶たちが、伝教大師の講義を聞いて学んだことは事実である。そして密教においては、伝教大師弘法大師の弟子となっている)。

また中国の諸宗の元祖たちが天台大師に帰伏して、謗法の咎を免れたことも明らかとなった。またその後、次第に世が悪くなり、人々の智慧も浅くなるほどに、天台大師の深い義は学ばれなくなった。他宗の執心は強盛になるほどに、次第に天台宗も六宗七宗に落とされ、弱って行き、結局は六宗七宗以下になってしまった。さらに言葉にする価値もない禅宗・浄土宗に落とされ、信徒も次第にそれらの邪宗に移って行った。最後は、天台宗の碩徳と仰がれる人々もみな落ちていき、かえってそれらの邪宗を助けるようになった。そして、六宗八宗の田畠所領さえ荒れ果てて、正法は失せ果てた。天照太神八幡大菩薩山王権現など諸の守護の諸大善神も法味を受けられなくなり、国中を去ったためか、悪鬼が力を得て国はすでに破れようとしている。

(つづく)