大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

立正観抄 現代語訳と解説

立正観抄       文永十一年(1274年) 日蓮 撰

 

(注:立正観鈔とも。副題として、「法華止観同異決」とある。身延山にて、日蓮上人53歳の著作。天台宗の僧侶で、何らかの理由により佐渡流罪となり、その佐渡で弟子となった最蓮房宛。最蓮房は京都におり、当時の比叡山で流行していた、止観の修行は『法華経』よりも優れている、という見解についての質問状を送って来たので、それに対する回答である)。

 

現在、天台の教法を習学する人々の中で、止観(しかん・乱れた心を止め、心を観察するという意味。いわゆる瞑想を中心とした修行)の観心修行を貴んで、『法華経』の本門迹門の教えを捨てることが多く行なわれているようである。

(注:天台教学における止観は、まず、『法華経』の教えに基づく膨大な量の知識を得なければならない。その教えに従って、自らの心を観察し、悟りに向かって着実に進む、というものである。それは、学問が好きな者なら問題はないが、学問より実践が得意、というような性格の者は、そのような緻密な体系のもと観心修行するより、文字に依らないと言う不立文字をかかげる禅宗の禅に魅力を感じることであろう。したがって、ここで『法華経』よりも止観が上だ、というその止観とは、思うに天台大師講述の『摩訶止観』に説かれる止観のことではなく、単純に禅宗の禅ということであろう)。

今問う:そもそも観心修行というものは、天台大師の『摩訶止観』に説かれるところの、自らの心を観察する教えである「一心三観」「一念三千」の観法によるものなのか。あるいはまた、今、世に流行している達磨大師が中国に伝えた禅による観法なのか。

(注:天台教学における止観も、禅宗による禅も、見た目にはいわゆる坐禅をしている姿なので、全く区別はつかない。しかし、その心の中の状態は、全く異なっている。以下、その違いについて述べられる)。

答える:(注:原文には「答える」という文字がある所とない所があるが、ない所は補って記す)。達磨の禅についての教えは、真理を明らかにできない妄語であり方便による禅観である。したがって、『法華経』の妙法に基づく禅の教えから見れば、まさに方便として捨て去られるべきものである。その祖師である達磨大師の禅は、真理は教えでは伝えられないとする「教外別伝」の天魔の禅である。その禅の教えも教外別伝も、共に悟りを得ることはできない妄語の禅であるので、これを用いてはならない。もし天台大師の『摩訶止観』に記される一心三観(注:瞬間的な心に空・仮・中の三つの観が備わるとする観心)によるならば、何を退け何を受け入れるか、ということのすべてを、天台大師の本意に背かないようにしなければならない。止観修行の観心によるならば、『法華経』に背いてはならない。『摩訶止観』のすべては、『法華経』の教えによって立てられる一心三観の修行であり、それによって、人の知恵によっては理解できない妙なる法を感得するのである。

したがって次のことが知られる。『法華経』を捨ててただ止観を中心とするという者たちは、大いに教えを侮っているのであり、大きな邪見の天魔のわざに陥っているのである。なぜなら、天台の一心三観こそ、『法華経』によって禅定を開き、自らの心に悟りを証得するという己心証得(こしんしょうとく)の止観だからである。

(注:つまり、達磨の禅ならば、すべて捨て去らねばならない。またもし、天台の止観だというならば、しっかりと『摩訶止観』を理解すべきであり、天台大師の止観は『法華経』に基づいているのだから、正しく理解するならば、止観は『法華経』よりも勝れている、などとは言わないはずだ、ということである)。

問う:天台大師の『摩訶止観』ならびに一念三千(いちねんさんぜん・観心の対象である心にすべてが備わっているという教え。すべてを表わす数字が三千である)と一心三観と己心証得の妙観は、すべて『法華経』によるという証拠はどのようなものか。

答える:問い返すが、それでは『法華経』によらないという文はあるのか。ある人は次のように言っている。「この止観は天台智者大師が、自らの心の中で行なわれた法門によって説かれているのだ」と。あるいはまた、「このために、『摩訶止観』によってまさしく観法を明かすのであり、一念三千をもって指南とするのだ。したがって、これこそ終窮究竟の極説である。『摩訶止観』の序の中に、自らの心の中に行なわれた法門を説く、とあるのは、このためである」。しかし、これらの文は、全く『法華経』によらない、という文ではない。すでにここに、自らの心の中に行なわれた法門と言っているからである。天台大師が立てた法門は、『法華経』そのものであるからである。したがって、この『摩訶止観』の文の意味は、『法華経』によるということの証文である。ただし、他宗の人に対する時は、問答によって概略を述べるべきであり、それがもし、天台大師の止観や『法華経』によらないと言えば、速やかに相手にしないことである。

なぜなら、天台大師は、「修多羅(しゅたら・古代インド語で経を意味するスートラの音写文字)と合えば記してこれを用いよ。もし経文がなくその義がなければ、信じ受け入れてはならない」と言っている。また、伝教大師は、「仏の言葉によるべきであり、人の言葉を信じてはならない」と言っている。竜樹の『大智度論』には「修多羅によるものは白論であり、修多羅によらないものは黒論である」とある。釈迦牟尼世尊は「法によって人によらず」と言っている。

天台大師は『法華経』によって、そして竜樹を高祖にしながら(注:天台大師は、竜樹の『大智度論』などの文を根拠に教学を構築している)、『法華経』の経文に逆らい、自らの言葉を翻して外道の邪見の教えによって『摩訶止観』を講述するなどあり得ないのである。

問う:正しく『摩訶止観』は『法華経』によると証明できる文はあるのか。

答える:余りにも多すぎるので、その一部をここに記そう。

『摩訶止観』に、「漸次止観(ぜんじしかん・程度の低い段階から順次高い段階へと進む止観)と不定止観(ふじょうしかん・漸次止観や円頓止観を適宜に織り交ぜた止観)については今は説かず、『法華経』によって円頓止観(えんどんしかん・すべては一つであるという天台教学の究極的な教えによって、最初から究極的な次元において止観を修すもの)を明らかにしよう」とある。

中国天台の六祖である湛然(たんねん・妙楽大師。中国天台中興の祖。荊渓(けいけい)湛然ともいう)が記した『止観輔行伝弘決(しかんぶぎょうでんぐけつ)』には、「『法華経』の要旨を集めて、不可思議、十乗観法(じゅうじょうかんぽう・止観観心の対象となる境を観不可思議境などの十境に分けて説かれる教え)、十境、待絶滅絶、寂照の行となる」とある。同じく『止観大意』には、「天台の教門は竜樹をもって始祖とする。慧文(えもん・竜樹を第一祖とする説もあるが、一般的には慧文を第一祖とし、南岳慧思を第二祖、天台大師智顗を第三祖とする)は、ただ内観を重ねて視聴しただけであり、南岳慧思と天台大師に及んで、さらに法華三昧陀羅尼(『法華経』の教えに基づく瞑想修行)を発するによって、正しい教えの門を開拓して観法は完全に備えられた。『法華経』を解釈するためには、権と実(権は仮・方便という意味で、実は真実という意味)と本門と迹門について明らかに理解するべきであり、その上で修行するべきである。ただ『法華経』のみを妙と称することができる。まさにこの経典によって観法の意義を立てるべきである。五方便(止観の準備段階のこと)および十乗観法というものは、すなわち円頓止観は全く『法華経』によるということである。円頓止観はすなわち法華三昧の異名にすぎない」とある。同じく荊渓湛然の『法華文句記』には、「観法と経文が合わされば、他人の宝を数えるようなことはない(注:天台大師は、教学だけで修行をしないのは、他人の宝を数えているようなものだと述べている)。まさに知るべきである。『摩訶止観』は法華三昧の方便であるということを。もしこのことを理解するなら、まさに『法華経』の要旨に合うのである」とある。

また中国の唐の師である行満(ぎょうまん・唐に渡った伝教大師最澄に教えた天台の僧)の釈した『天台宗法門大意』には、「『摩訶止観』の大意は法華三昧の異名を出ない。『法華経』によって観法を修すのである」とある。

これらの文による証拠は明らかである。これ以上、誰が論じられようか。

問う:天台大師は四種釈(ししゅしゃく・『法華文句』において用いられた経典解釈方法。因縁・約教・本迹・観心の四つ)を作り、観心の釈に至って本迹の釈を捨てたと思われる。また、『法華経』は、順次悟りの段階を上って行く漸機の人のために説かれ、『摩訶止観』は、すぐに悟りに到達できる人のために説かれたと言われるが、これはどうなのか。

答える:漸機のために劣った教えを説き、すぐに悟りに到達できる頓機のために優れた教えを説くならば、今の天台宗の意義は、華厳宗真言宗の経典は『法華経』に勝っていると言うべきであろう。今の天台宗の浅はかさは、真言密教は事理(じり・事象的なことと理法的なこと)共に備わっている密教の教えであるために、『法華経』に勝っていると言っている。これでは、止観は『法華経』に勝ると言うのも無理はない。無理はない。

次に、観心の釈の時、本迹の釈を捨てるということについては、『法華経』のどこに、人の師の解釈を根拠として仏の教えを捨てよと書いてあるのか。たとい、天台大師の釈だとしても、釈尊の金言に背き、『法華経』に背くならば、全くこれを用いるべきではない。法によって人に依らず、ということは、竜樹、天台大師、伝教大師の時からの御約束である。その上、天台大師が、迹門の大いなる教えが興れば、その前の教えがいくら偉大なものであってもそれは価値を失い、本門の大いなる教えが興れば、迹門の大いなる教えは価値を失い、観心の大いなる教えが興れば、本門の大いなる教えは価値を失うと解釈していることについては、次のように理解できる。すなわち、本門の正体である本法を、妙法不思議の一法に定めて修行を立てる時、像法の時代の修行においては、観心の修行を求めても、迹門を尋ねても迹門は広く、本門を尋ねても本門は高く、究めることができないということになる。したがって、能力の低い者には不可能である。そこで、天台大師は、「己心の妙法を観ぜよ」と言っているのである。したがって、妙法を捨てよ、などとは言ってはいないのである。もし妙法を捨ててしまえば、何物を己心として観ずべきであろうか。如意宝珠を捨てて貧窮をとって、それを宝とすべきであろうか。悲しむべきことに、今の世の天台宗の学者は、念仏、真言禅宗などに同意するために、天台大師の教釈を習いそこねて、『法華経』に背き、大いに謗法の罪を犯している。

もし止観は『法華経』に勝ると言えば、次に述べることに相違する。止観は、天台の道場で得るべき自らの証である。『法華経』は釈尊の道場で得るべき大いなるお教えである。これが第一である。釈尊は妙覚の位である果を円満に成就した仏である。天台大師は、修行の段階から見れば、初住(しょじゅう)の位までは上っていないので、円教の六即(ろくそく)の位で言えば、名字即、観行即、相似即以上には行っていない。究極的な仏の位から見れば、四十二の位が劣っている。これが第二である。『法華経』は釈尊をはじめ、諸仏が世に出現する本懐である。止観は、天台大師が世に出て得た自らの証である。これが第三である。『法華経』は多宝如来の証明があり、その説法の座に集まった釈迦仏の分身は、広長舌(こうちょうぜつ・仏の広く長い舌、という意味であるが、その教えの偉大さを表わす言葉)を大梵天にまで及ばせた。これはみな、真実の大いに正しい教えである。止観は天台大師の説法である。これが第四である。これ以上も、数々の相違があるが、ここでは省略する。

また、一つの問答に、止観を修す者は能力の高い者であるから、『法華経』より勝っているとあるが、それならば、実を捨てて方便である権を取ればよい。天台大師が、「教えが権であるならばその位はいよいよ高い」と解釈しているからである。また、『法華経』の教えを被る者は能力の低い者であるから、止観より劣っているとあるが、それならば、権の教えを取って実の教えを捨てればよい。天台大師の釈に「教えが実であるならばその位はいよいよ低い」とあるからである。そして、止観は能力の高い者に説かれ、『法華経』は能力の低い者に説かれるといえば、止観は『法華経』より劣っているから、能力の高い者に説くということになるではないか。実にそういうことになるだろう。

天台大師は霊鷲山(りょうじゅせん・『法華経』が説かれたとされる場所)の聴衆として(注:天台大師は過去世に、釈迦が『法華経』を説いた場所にいて、それを聴いたとされる)、如来が世に出た本当の意義を述べたといっても、時至っていなかったので、妙法の名字を止観に変えたのである。教えの対象の人々は、迹門の教化がふさわしい者たちだったので、本門の教化をゆだねて広めることはしなかった。真実の妙法を止観と説き替えたために、ありのままの妙法ではないので、帯権(たいごん・権が混じっている教え)の法に相当する。

このために次のことが明らかとなる。天台大師が広めた教えによって教化された者は、釈尊の時代の権を帯びた円教の人のようである。権を帯びない真実の教えによって教化される者は、『法華経』の本門にふさわしい者である。止観と『法華経』の正体は全く同じとすることは、なお、師である人の解釈をもって、仏の教えと同じにしてしまう重い過ちを犯していることになる。ましてや、止観は『法華経』に勝るという邪義を言い出すことは、ただ本門の教化を広めることと迹門の教化を広めることと、像法と末法と、迹門をゆだねられることと本門をゆだねられることとの違いを、末法の修行者に明らかにするための、仏や天の御計いである。

(注:ここに、天台大師の教えに完全に従っておきながら、止観の修行を説かず、南無妙法蓮華経の題目と、その本尊を崇めることを教える日蓮上人の本意が隠されている。ここに述べられているように、天台大師の時代は、像法の時代であったので、釈迦から直接『法華経』を聴いたとしても、その教えをそのまま説くことはふさわしくないと判断して、その究極的な教を伏せて、それを止観の修行として説いたのだ、と日蓮上人は述べている。もちろん、このようなことは、天台宗の教えにはない。さらに、では日蓮上人の時代はどうなのか、というと、時代はさらに悪くなり、末法の世となっている。しかし、この末法の世でこそ、『法華経』が本当に広まる時代なので、南無妙法蓮華経の題目を唱え、その題目を本尊として崇めることにより、『法華経』の真意に到達するのだ、ということである。ここに、法然上人の『選択本願念仏集』で説かれた教えとの決定的な違いを見ることができる。法然上人は、末法の世であるから、自分の力によって修行することはできない。そのため、ひたすら阿弥陀仏の力に寄り頼み、念仏して極楽浄土に往生すべきであるとする。末法こそ、真実の教えが表わされる時だとする日蓮上人の主張とは全く逆なのである)。

このために次のことを知る。今の世の天台宗の中で、止観は『法華経』に勝ると唱える者は、祖師である天台大師のためには恩知らずの人である。どうしてこの過失をのがれることができようか。天台大師は昔、霊鷲山にあっては薬王菩薩と呼ばれ、今、中国にあっては天台大師と呼ばれ、日本にあっては、伝教大師と呼ばれる(注:伝教大師は天台大師の生まれ変わりという信仰がある)。過去現在未来の三世において、常に妙法を広めた。このように『法華経』を広めた人は、釈尊の他には、インド、中国、日本の三国にその名を聞くことができない。これほど偉大な存在である大師を、末学の者が、その教釈を悪いように学んで、過失のない天台大師に過失を押し付けている。どうして、これが大罪でないことがあろうか。

今、天台大師の本意はどのような教えであるのかと問えば、学者たちは一心三観だと言う。思うに、唯一の真理が円満に備わる一心三観とは、誠に大変深教えだと見えるが、あくまでもこれは、修行者における観心の方法である。三観とは、悟りの因となる修行という意義だからである。慈覚大師円仁の解釈に「三観とは、教えを体得させるための修行の観法である」とある。伝教大師は、「この止観修行とは、『法華経』に基づく妙果である悟りを得るためである」と言っている。したがって、次のことが明らかである。一心三観とは、果である悟りの次元における果徳の法門を成就するための、観法を修する側の心に関することである。ましてや、三観とは、言葉に表現された教えであるために、如来の悟りの境地における果徳の妙法に対しては、単なる人間の思考で理解できる空・仮・中の三観である。

(注:ここで「妙法」という言葉が出てきており、これからも繰り返し述べられる。『立正観抄』の中には、南無妙法蓮華経という題目は一言も出て来ていない。それは、この書の相手が、比叡山にいる、あるいは比叡山と密接な関係を保っている最蓮房だからであろう。この「妙法」を「南無妙法蓮華経」あるいは、「妙法蓮華経」に置き換えても、じゅうぶんこの後の文章の意味は通じるのである。つまり、その題目こそ、止観の修行の中で行なわれる一心三観よりも勝れているというのである)。

問う:一心三観より勝れた教えとはどのような教えか。

答える:このことは、非常に大切な一大事の法門である。ただ仏と仏だけが知る境界であるために、私たちが言葉で表現できず、このため、述べることはできない。このことをもって、経文には「私の教えは妙であり思議しがたい。言葉をもって述べることはできない」とある。妙覚の位の果を満たした仏ですらなお、言葉にできない不思議の法だと説いている。どうして、等覚の位の菩薩以下、凡夫にいたるまでの者が説けるだろうか。

問う:しかし名称や文字を聞かなければ、どうして勝れた教えがあることを知ることができるだろうか。

答える:天台大師の自らの証の法とはこれである。現在の学者は、師から弟子へ伝えられる血脈相承を習っていないので、これを知らない。このために、慎重に秘密にすべき教えなのである。とは言っても、あなたの志は神妙であるので、その名称を出そう。一言で表現するならば、これである。伝教大師が「一心三観は一言において伝えられる」と書いたものである。

問う:私はそのようなことをまだ聞いたことがない。どのようなものか。

答える:いわゆる一言とは妙法のことである。

問う:どのようにして、妙法は一心三観に勝れているということを知ることができるのだろうか。

答える:妙法は明らかにされるべき功徳である。三観は明らかにする側の行者の観門であるためである。この妙法を仏は、「道場において得られた法である私の教えは妙であり思議しがたい。言葉をもって述べることはできない」と語られた。

天台大師は、「妙は不可思議であり、言語道断であり、心の働きの消え去るところである。法は十界十如、因果不二の法である」と述べている。三諦(空諦、仮諦、中諦)と言っても、三観と言っても、三千(すべてという意味を三千という数字で表わしている)と言っても、すべて人間の思考ではとらえられない教えだとは言っても、天台大師自らの証は、天台大師自身の思慮の及ぶところの法門である。

しかしこの妙法は、諸仏の師である。『法華経』の経文においては、久遠実成の妙覚の位を究め尽くした果の仏の境界であり、『法華経』以前の仏や迹門の教主、諸仏、菩薩の境界と同じではない。『法華経』に、「ただ仏と仏だけがこれを究め尽くすことができる」とは、迹門の百界千如三千世間の法門を、迹門の仏がその分に応じて説いたものである。それに対して、本門の本地の思議の及ばない境界と智慧の妙法は、迹門の仏たちの思慮は及ばないものである。どうして、菩薩や凡夫の思慮が及ぶであろうか。止観の二字について、観を仏知と名付け、止を仏見と名付けると解釈しても、それは迹門の仏知と仏見であって、妙覚極果の知見ではない。なぜなら、止観は天台大師の自らの証の百界千如三千世間であり、三諦三観を正とする。迹門の正意はこれである。したがって、迹門の仏の知見であることが明らかである。止観に絶待不思議の妙観を明らかにするといっても(注:絶待(ぜつだい)とは、相対的次元を超えた絶対的次元を意味する言葉)、ただ一応、一念三千の妙観におけるものとして、絶待不思議と名付けているのである。

問う:天台大師は真実にこの一言の妙法を証得したのではないか。

答える:内なる証においてはその通りである。しかし、それを外に向けて用いて広めるということはなさらなかった。得られたところの内なる証を秘密にして、外に向かっては三観と名付けて、一念三千の法門を示されたのである。

(注:天台大師に、体得しておきながら、それを秘密にして、広めなかったものなど、あるはずがない。一心三観、一念三千などの止観の実践修行上の用語も、内に体得したものを秘密にして形を変えて示されたものだ、などということも、ただ日蓮上人の考えに過ぎない)。

問う:なぜ体得しておきながら、広められなかったのか。

答える:時が至っていなかったので、釈迦牟尼世尊からの働きかけがなく、あくまでも天台大師は、迹門における教化の師だったからである。

(注:天台大師は、迹門における教化の師だ、などということは、天台教学からすれば、とんでもない言葉である。迹門はもちろん、本門の師でなければならない。しかしこれは、日蓮上人の悟りと体験からの言葉であり、日蓮上人の跡を継ぐ教団内の教えとすれば、それはそれで良しとして、否定されるべきものでもない。先にも注で述べたように、ここにも、比叡山と密接な関係にあるであろう最蓮房に宛てた書である、ということが考慮される)。

問う:天台大師が、この一言の妙法を証得されたという証拠はあるのか。

答える:このことは、天台宗において秘密にされたことである。したがって、世に伝えられず、学者も知らないのである。「潅頂玄旨(かんじょうげんし)の血脈」と言って、天台大師自筆の血脈一紙がある。天台大師が入滅した後は、石塔の中にあった。伝教大師が入唐された時、八舌の鑰でこれを開いて与えられた。道邃和尚より伝受された血脈とあるのはこれである。この書に、「一言妙旨、一教玄義」とある。伝教大師の血脈に、「一言の妙法とは両眼を開いて五塵(ごじん・人間の五つの器官によって感じ取られる五つの対象)の境界を見る時は、条件によって表わされた真如である。両眼を閉じて無念の状態にある時は変わることのない真如である。このために、一言を聞けば万法に達し、一代の脩多羅は一言に含まれる」とある。この両大師の血脈の通りならば、天台大師の血脈相承の最要の法は妙法の一言である。一心三観とは、妙法を成就するための修行の方法である。三観は修行の因の義であり、妙法は悟りの果の義である。ただし、因のところに果があり、果のところに因がある。因果が一つである妙法を観じるために、このような功能を得るのである。

(注:因果が一つである妙法ということによって、天台大師は、究極的な妙法を、止観として広めたが、それも完全な教えであり、妙法と何ら変わりがない、ということを述べている。しかしそれだからといって、日蓮上人は、末法の時代において、止観修行が人々を妙法に導くものであるとは述べていない。それは、日蓮上人にとっては、繰り返すが、題目と本尊なのであるが、それはこの書の範囲外のものである)。

したがって次のことが明らかである。「天台教学の至極の法門は、『法華経』の本門と迹門がまだ分かれていない次元において、無念の止観を立て、それを最も秘密とされるべき上法とする」というものは邪義であり、大なる誤った見解であるということである(注:この無念の止観というものが、達磨の禅に影響された比叡山の人々が唱えたものと考えられる。つまり、『摩訶止観』に説かれている緻密な観法を学んでそれを実践するのではなく、最初から無念無想で瞑想することが究極的な止観なのだ、とされていたのであろう)。天台大師以前に、人々から拠りどころとされ、経典を広める大菩薩(経典解釈家たちを指す)は、すでに仏の経典によって多くの論書を著わした。天台大師が、どうして仏の教説に背いて無念の止観などというものを立てられるであろうか。もし止観が『法華経』に基づかないとすれば、天台大師の止観も、教外別伝の達磨の天魔の邪法と同じになってしまう。決してそのようなことはない。あわれである、あわれである。

伝教大師の『顕戒論』には、「国主の制度でなければ、守り行なうことはない。法王の教えでなければ、信受することはない」とある。また「人の拠りどころとされた経典解釈家たちは、論書を著わすにあたって、方便の権があり、真実がある。声聞と縁覚と菩薩の三乗についての要旨を述べるにあたって、三乗が別々である教えと、一つである一乗の教えがある。このために、天台智者大師は、三乗の要旨に順じて、蔵・通・別・円の四教の段階を定め、一つの真実の道によって一仏乗を立てた。六波羅蜜(ろくはらみつ・大乗の菩薩が修すべき六つの実践項目)が別々であるのに、どうして戒律が別々でないわけがあろうか。教えを受ける者たちが同じでないのに、どうして、教えの形式が同じであろうか。このために、天台大師の伝法は深く論書により、また仏典に従っている」とある。日本の天台宗の法門は、伝教大師より始められた。もし天台の止観が『法華経』によらないと言えば、日本においては伝教大師という偉大な祖師に背き、中国においては、天台大師に背くことになる。両大師の伝法は『法華経』による。どうしてその末学がこれに違うことができようか。違うと言えば、現在の天台宗の人々は、その名称を天台山に借りていると言っても、そこで学ばれている法門は、達磨の誤った教えと、密教の善無畏(ぜんむい)の妄語とによっている。天台大師と伝教大師の解釈の通りならば、自らの心の中の秘法は、ただ妙法の一言に限るのである。しかし、現在の天台宗の学者は、天台の石塔の血脈を秘密にしてそれを失ってしまったために、天台の血脈相承の秘法を失って、自分勝手に一心三観の血脈という書を作り、錦の袋に入れて首にかけ、箱の底に埋めて高値で売るために、邪義が国中に流布して天台の仏法が破られ失われたのである。天台大師の本意を失い、釈尊の妙法を捨ててしまうことは、ひたすら、達磨の教訓であり、善無畏の勧めである。このために、止観をも知らず、一心三観、一心三諦をも知らず。一念三千の観法をも知らず、本迹二門をも知らず。相待妙と絶待妙の二妙をも知らず、『法華経』の妙観をも知らず。教相をも知らず、権実をも知らず、四教八教(経典の内容で分類した化法の四教と、経典の形式で分類した化儀の四教)をも知らず、五時五味(経典が説かれた順番で分類した五時と、それを乳製品の発酵過程に喩えた五味)の教化をも知らない。教えと教えを受ける者の能力と、時と国に相応すべき義については言うまでもない。真実の教えにも似ず、仮の教えにも似ていない。それは以上述べたことからすれば、当然である。当然である。天台大師と伝教大師の伝えた教えは、禅や真言より劣っていると習うために、達磨の邪義、真言の妄語と同じになってしまい、方便の権教にも似ず、真実の教えにも似ないのであり、この二つの教えに摂取されないのである。このために、大いなる謗法の罪が現われて、止観は『法華経』に勝るという邪義を言い始めて、過がない天台大師に過失を押し付けてしまったのである。したがってそれは、高祖に背く不孝の者であり、『法華経』に背く大いなる謗法の罪の者なのである。天台大師の観法を尋ねれば、大蘇山(だいそざん)の道場において、三昧の瞑想の中で悟って以来、目を開いて妙法を思えば、すべては縁に従って現われた真如であり、目を閉じて妙法を思えば、不変の真如が現前するのである。この二種の真如は、ただ一言の妙法にある。自ら悟った妙法を語る時は、すべてがそこに達し、釈迦一代の脩多羅を一言に収める。迹門を尋ねれば迹門は広く、本門を尋ねれば本門は高い。このために、自らの心の妙法を観じることが、最もふさわしいとされたのである。現在の学者はこの意義を知らないために、天台大師が証さえた妙法を学び損ねて、止観は『法華経』に勝り、禅宗は止観に勝ると思って、『法華経』を捨てて止観に付き、止観を捨てて禅宗に付くのである。禅宗の一門は、「松に藤がからまっている。松が枯れ、藤が枯れたら、その後はどうなるのか」、また「上らないで一枝を折る」などという天魔の言葉を深く信ずるのもこのためである。「脩多羅の教主は松のようであり、その教法は藤のようである。それぞれ論争すると言っても、仏も入滅し教法の威徳もない。このために、脩多羅の仏教は月を指す指である。禅の一法のみが唯一の妙である。これを観じれば見性得達(悟りに達するという意味)するのである」という。これは、大いなる謗法の天魔のわざを信じるためである。しかし、『法華経』の仏は、その寿命が無量であり、常住であり、不滅の仏である。禅宗は滅度(めつど・仏の寿命が尽きたとして、その国土から姿を消すこと)する仏と見ているので、外道と同じ無に執着する偏見である。これは「この教えは法位にある。世間の相は常住である」という金言に背く誤った見解である。禅は『法華経』の方便であり、悟りに至らない禅定であるにもかかわらず、真実であり常住の教えとしているので、外道と同じく、常に執着する偏見である。もし与えて言えば、仏の方便である三蔵教の教えである。もし奪って言えば、ただ外道の邪法に過ぎない。与えて言うのは、一応という意味であり、奪って言うのは、『法華経』の意義である。『法華経』の奪う意義をもって、禅は天魔外道の法であると言うのである。

問う:禅を天魔の法という証拠は何か。

答える:前に述べた通りである。