大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

『摩訶止観』抄訳 その1 

『摩訶止観』巻第一の上 「三種の止観」の段より

 

(注:見出しは訳者が便宜上付ける)

〇三種の止観

天台智者大師は南岳慧思禅師より三種の止観を伝えられた。一つは漸次止観(ぜんじしかん)、二つは不定止観(ふじょうしかん)、三つは円頓止観(えんどんしかん)である。

これらはみな、大乗であり、共に実相(じっそう・真理そのものの姿)を対象とし、同じく止観と名付けられるものである。漸とは、すなわち最初は浅く、次第に深くなるということである。梯子を上るようなものである。不定とは順番が前後することである。ダイヤモンドを太陽の光に照らせば複雑に輝くようなものである。円頓とは最初も最後も不二(ふに・二つであり同時に一つであるという意味)であり、神通力を持つ者が空に昇るようなものである。上・中・下の三種の能力の人のために三つの法門について説き、三つの譬喩をあげた。概略的に説くことは終わる。これから、詳しく説く。

〇漸次止観

漸次止観の最初においても、実相を知るのである。実相は理解することが難しく、順序を経て理解を深めれば修行しやすい。まず戒律に身を委ねて、邪見を翻して正見に向かい、地獄・餓鬼・畜生に堕ちる道を止めて、修羅・人・天への道に達するようにする。次に禅定を修して、欲界の乱れた道に行くことを止め、色界・無色界の禅定の道(四禅と四無色定)に達するようにする。次に無漏道(むろどう・煩悩から離れること)を修して、三界に閉じ込められているところから解放され、涅槃の道に達するようにする。次に慈悲を修して、自分だけの悟りを求めることを止めて、菩薩の道に達するようにする。最後に実相と一体となって修し、生滅の二辺の偏りを止め、常住の道に達するようにする。これを、最初は浅く最後は深い漸次止観の相とする。

不定止観

不定止観とは、特に階位はなく、最初に漸次止観を修し、あるいは最後に漸次止観を修し、最後に円頓止観となって、その中でも、前後が入れ替わり、互いに浅く、互いに深く、あるいは事象となり、あるいは理法となる。あるいは世界悉檀を指して第一義悉檀とし、あるいは第一義悉檀を指して為人悉檀、対治悉檀とする(注:四悉檀を自在に修すこと)。あるいは観をもって照らすことから止を修し、あるいは止を照らすことにより観とする。このために、不定止観と名付ける。

〇問答

疑う者が言う。「教えが同じく大乗であり、境は同じく実相であっても、相だけはなぜ異なっているのか」。

同であって、しかも不同、不同であって、しかも同である。漸次止観の中では、善道の三つと悪道の三つの合計六の異なりがある。無漏道は声聞、縁覚、菩薩の三つであり、総合的に見て戒律、禅定、慈悲の三つであり、合計十二の不同がある。これは種類がはっきり分かれている場合であって、分かれていない場合は不定止観と名付けられる。これらはみな、同じく大乗、同じく実相、同じく止観と名付けられる。したがって、どうして差別があると言えようか。同であって不同、不同であって同である。漸次止観の中に善道と悪道と無漏道の九の不同があり、不定止観の中に、互いに浅深、互いに事理、四悉檀を自在に修すこと、観と止を互いに照らすことの四種の不同、合計で十三の不同がある(注:この箇所にある数字が何を指すか、定説はない。しかし、前の記述を簡略化して記しているまでであり、それほど重要なことでもない)。これははっきり分かれている場合であり、分かれていない場合は不同と名付けられる。一切の聖人は、みな無為の法においてしかも差別があるとすることは、この意味である。

〇円頓止観

円頓とは、初めより実相を対象とする。対象である境とすれば、即ち中道であり、真実と異なることはない。それは、法界のすべてを境とすることであり、念を法界と等しくする。したがって、一色一香も中道でないことはない。自分の世界、および仏界、衆生界もまた同様である。五陰(ごおん・認識が生じる五つの過程)と六入(ろくにゅう・認識を生じさせる情報を得る六つの感覚器官)もみな同様であるので、苦を捨てる必要がなく、無明も、塵ほどの多くの煩悩もそのままが涅槃であるので、それらを滅したと証すべきこともない。苦諦もなく集諦もないために、世間なく、道なく滅もないために、世間から出る必要もない。純粋に唯一の実相のみあって、実相の他に別の法はない。法性が寂然としていることを止と名付け、寂然としたままで常に境を照らすことを観と名付ける。最初と最後を言うとしても、それらが二つでもなく、別でもなし。これを円頓止観と名付ける(注:絶対的次元、つまり実相そのものにおいて行なわれる止観であるために、修する主体と境となる対象が相対していない、ということである。相対していなければ、何も認識の対象として表現されない。そのことを「ない」と表現しているのであり、それは存在そのものがない、という意味ではない)。