大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

『摩訶止観』抄訳 その7

『摩訶止観』巻第一の下 「六即に約す」の段より

 

◎六即について

六即によって真実を表わす(第一章「大意」の第一節「発大心」の第三項「是を顕す」に、「四諦に約す」「四弘誓願に約す」「六即に約す」の三目があり、その第三目)。

問う:(注:「問う」は原文にはない)初心が真実とするのか。修行の後の後心が真実とするのか。

答える:『大智度論』の燃える灯心の喩え(注:燃える灯心を無明などの煩悩に喩え、灯心を焼く焔をその段階に相応した智慧に喩え、やがて灯心が燃え尽きる時、悟りを得るとする)の通りである。真実は初心ではなく初心を離れず、後心ではなく後心を離れない。もし智慧と信心が具足していれば、一念はそのまま真実であると聞けば、信心のためにその教えを謗らず、智慧のために理解できないのではないかと怖れることはない。初心も後心もみな真実である。もし信心がなければ、高い聖境だと考え、自分の智慧では難しいとしてしまい、もし智慧がなければ、増上慢を起こして、自分はすでに仏に等しいとしてしまう。初心も後心もみなそのものは真実ではない。このために、必ず六即を知るべきである。それは、理即・名字即・観行即・相似即・分真即・究竟即である。この六即は、凡に始まり聖に終わる。凡に始まるために、自分にはできないという疑いを除き、聖に終わるために、高慢の心を除くのである。

〇理即(りそく)

一念の心はそのままで如来蔵の理法である。如の故に即空、蔵の故に即仮、理の故に即中である。一切智・道種智・一切種智の三智は、一心の中に具わって、不可思議である。これはすでに説いた通りである。三諦はそのまま一諦であり、三でもなく一でもない。一つの姿形一つの香りにすべてが具わっている。すべての心もまた同様である。これを理即の真実の菩提心と名付ける。また理即の止観である。即寂を止と名付け、即照を観と名付ける。

(注:悟らない心、悟りさえ求めない心、まだ修行も始めていない心にも、すでに理法として真理が具わっているということが理即である。したがって、理即でない心を持つ人など誰一人いないことになる。そして全く悟りや真理ということに興味さえ示さない者であっても、その心の奥底には、それを求める衝動があって、それを求めない心に対してストレスを与える。またそのストレスによって、人は気を紛らわすために、世の虚しいものを追いかけまわす、という循環を行なうのである。しかしたといそのような虚しい人生にあったとしても、理即であることには、何ら変わりがない)。

〇名字即(みょうじそく)

理法は真実として誰にでもあるといっても、それを知らないために、日々の生活の中で用いることはない。まだ三諦の真理の教えを聞かないために、全く仏法を知らない。牛や羊の目が東西南北を理解しないようなものである。そのような中で、それを教えてくれる人に従い、あるいは経巻に従って、すでに説いたように唯一実相の菩提について聞き、文字の上でよく理解して、すべての存在はみな仏法そのものであることを知る。これを名字即の菩提とする。またこれは名字の止観である。まだこれを聞かない時は、あちらこちらに迷い走り求め、すでに聞くことができれば、自分以外のところに求める心を捨てるわけであり、それを止と名付ける。ただ法性を信じて、その法性以外のものを信じないことを観と名付ける。

〇観行即(かんぎょうそく)

観行即の真実とは次の通りである。もしただ名字を聞いて、それをそのまま口で説くだけならば、虫が木を食べて、その跡がたまたま何かの文字になったとしても、その虫はそれを文字なのか文字でないのか知らないようなものである。すでによく理解できれば、何が菩提であるのか必然的に心が明瞭に観察し、理法と智慧は相応し、行なうところは言った通りとなり、言った通りに行なうこととなる。『華手経』に、「言葉を多く説く者ほど修行しないものである。私は言葉を説くことをせず、ただ心に菩提を行じるだけである」とある。この心と口が相応することが、観行の菩提である。『大智度論』では、四句(①智慧があっても聞くことがなければ、実相を知らず、それは、眼があっても深い闇の中では何も見えないようなものである。②よく聞いても智慧がなければ、真実の義を知らず、それは、明るい中では灯は眼に映らないようなものである。③よく聞いて智慧があれば、説く通りに受ける。④智慧がなく聞くこともないのは牛と同様な者である)をもって、聞くことと智慧が具足していることを説いている。眼は太陽の光を受ければ、あらゆるものを誤りなく明らかに見ることができるようなものである。観行もまた同様である。まだ理法に達していないといっても、観心は中断されることはない。『首楞厳三昧経』の中で、射的を学ぶことにおいて段階があるという喩えのようなものである。これを観行の菩提と名付ける。また観行の止観と名付ける。常にこの思いを持ち続けることを観と名付け、他の思いを捨て去ることを止と名付ける。

〇相似即(そうじそく)

相似即の真実の菩提とは、さらに観がいよいよ明らかとなり、さらに止がいよいよ寂となることをもって、射的が上達するに従って、的が近くに見えるようになることを、相似の智慧と名付ける。この世の治世産業も、仏法の真理に違うことはない。あらゆる思想や科学も、みな昔からの仏が経典の中に説いているのである。『法華経』の中で、その功徳によって六根が清浄となることが説かれている通りである。完全に無明を抑制することを止と名付け、完全な悟りに近い中道の智慧を観と名付ける。

〇分真即(ぶんしんそく

相似の観力によって、十住の位に入る。最初に無明を破って仏性を見、宝蔵を開いて真如を顕わすことを、発心住(ほっしんじゅう・十住の第一の位)と名付ける。そして等覚の位に入って、無明は希薄となり、智慧はいよいよ明瞭となる。たとえば、月の初日より十四日に至って、月の光は丸々と満ち、闇はまさに尽き果てようとするようなものである。まさに仏の身となるべき人は、すなわち八相成道(はっそうじょうどう・釈迦がこの世において誕生し入滅するまでの過程になぞらえて、仏における八つの過程を定めたもの。降兜率・托胎・出胎・出家・降魔・成道・転法輪・入滅)し、菩薩として人々を導くために九法界の身となるべき人は、普門(ふもん・あらゆる身となって人々を導くという意味)の身を現わすのである。『法華経』に説かれる通りである。これを分真即の菩提と名付ける。また、分真の止観、分真の智断(ちだん・智慧と煩悩が断じられること)と名付ける。

〇究竟即(くきょうそく)

究竟即の菩提とは、等覚の位は一度転生すれば妙覚の位に入る。智慧の光は円満であり、もはや増す余地もないことを菩提の果と名付ける。大涅槃の断であり、もはやさらに断じるべきものがないことを果果と名付ける。等覚の位のままでは通じることはなく、ただ仏のみが通じる次元である。悉曇の最後の荼の字を過ぎたものがないように、もはやそれ以上の道について説くことはない。このために、究竟の菩提と名付ける。また究竟の止観と名付ける。

〇まとめと問答

以上を総合的に、喩えを用いて述べるならば、貧しい人の家の土地に宝の蔵が埋まっていたとして、最初はそれを家の人は知らず、それを知らせてくれる人がいて、初めてそれを知る。さっそく雑草を除いて、これを掘り起こすと、次第に蔵に近づいていき、ついに蔵に到達してそれを開き、中身をすべて取り出すようなものである。この過程を各六即にそれぞれ当てはめることは、わかるであろう。

問う:『大智度論』で説かれる五菩提(ごぼだい・発心菩提、伏心菩提、明心菩提、出到菩提、無上菩提)との関係性はどうか。

答える:この『大智度論』の説は、竪(たて・その教えと悟りの高さ深さという意味)に別教の位を判別するものであり、ここでは竪に円教の位を判別するものである。これを照合すれば、発心菩提は名字即に対し、伏心菩提は観行即に対し、明心菩提は相似即に対し、出到菩提は分真即に対し、無上菩提は究竟即に対する。また、この五菩提の名称を用いて円教の位に当てはめれば、発心菩提は十住の位であり、伏心菩提は十行の位である。

問う:十住の位で煩悩は断じられている。十行において何を断じ伏するのか。

答える:これは真実の道において断じ伏するのである。たとえば、小乗の見解を破ることを断と名付け、小乗の思惟に対することを伏と名付けるのである。続く明心菩提は十廻向の位、出到菩提は十地の位、無上菩提は妙覚の位である。また十住より五菩提を具え、そして妙覚は究竟の五菩提となる。したがって、地論宗において、「初めの一地から他の地の功徳が具わっている」ということは、この意義である。

問う:どうして円教の位において六即を説くのか。

答える:円教の悟りにおいてすべてを観じれば、みな六即に当てはまる。このために円教の意義をもって、すべての教えについて六即を用いて行位を判別するのである。円教以外はそうではない。このためにこれは用いない。もしそれぞれの教えにおいて六即を用いれば、どうして適切な理解が得られようか。それはもともと方便によって浅い教え、卑近な教えとなっており、真実の教えの意義ではないからである。

〇結論(第一章「大意」の第一節「発大心」の第三項「是を顕す」の結論となる)

これまでの全般的な教えにおいては、真実(=是)ではない排除すべきもの(=非)を判別する場合、まず苦諦の世間に翻弄される事柄をあげて判別するばかりであった。そのためここでは、第三項の第一目として、浅く卑近であり曲折している四諦智慧によって判別し、第二目として四弘誓願によって判別し、次に第三目として六即の位によって判別するのである。このように次第に深く詳細となっていき、まさに是(=真実)が顕われるのである。したがって、次のことが知られる。月のように明るい神珠は、九重の淵に住む黒龍の顎の下にある。志があり、徳があってこそ、まさにこれに到達するのである。瓦石や草木を競って手に取り、それを宝だとするような浅はかな者にどうしてなるべきであろうか。浅薄な学者は全く知ることができないのである。