大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

『摩訶止観』抄訳 その6

『摩訶止観』巻第一の上 「三種の止観」の段より

 

(注:「◎三種の止観」の後半となる)

 

〇経を引用して述べる

ここでは、漸次止観と不定止観とは置いて論じない。ここでは、経典によって、さらに円頓止観について明らかにする。

非常に深い妙徳に了達している賢首菩薩が、『華厳経』の中で次のように言っている通りである。「菩薩が生死において最初に発心する時、ひたすら菩提を求め、堅固にして動くことはない。その一念の功徳は深く厚く極まりない。それを如来が分別して、劫を経て説いたとしても、すべてを尽くすことができない」。

この菩薩は円法を聞き、円信を起こし、円行を立て、円位に入り、円の功徳をもって自在に荘厳し、円の力用(りきゆう・力と働き)をもって衆生を悟りに導く。

円法を聞くとは何か。

生死はそのまま法身である。煩悩はそのまま般若である。業の束縛はそのまま解脱であると聞くことである。この法身・般若・解脱の三徳に三つの名称があるといっても、三つの本体があるわけではない。これらは一体だといっても、同時に三つの名称がある。この三はそのまま一つの相である。その実は、異なっているわけではない。法身が究竟すれば、般若・解脱もまた究竟する。般若が清浄であるなら、他の二つもまた清浄である。

解脱が自在なれば、余もまた自在なり。一切の法を聞くことにおいても、また同様であり、みな仏法を具して減少するところがない。これを円法を聞くと名付ける。

円信を起こすとは何か。

一切の法は、即空・即仮・即中であり、一二三がなく、しかも一二三であると信じる。一二三がないとは、一二三の区別を覆い隠すことである。しかも一二三であるとは、一二三を照らすことである。覆い隠すことでもなく、照らすことでもなく、それらはみな究竟、清浄、自在である。深遠な真理を聞いても、理解できないと怖れることなく、広大な教えを聞いても勇気をもって受け入れる。これを円信を起こすと名付ける。

円行を立てるとは何か。

ひたすら無上菩提を求め、空諦・仮諦がそのまま中諦であり、他には向かわない。三諦を円満に修して、限りがないことに飲み込まれず(注:空を指す)、限りがあることに動揺させられず(注:仮を指す)、動揺させられず飲み込まれずに中道に入る。これを円行を立てると名付ける。

円位に入るとは何か。

十住の位の初住に入る時、一つの位は、そのままで一切の位となり、一切が究竟していて、一切が清浄であり、一切が自在である。これを円位に入ると名付ける。

円の功徳をもって自在に荘厳するとは何か。

華厳経』に、詳しく自在の相が次のように説かれている。「この六根の中の一根において三昧に入り(注:空にあたる)、あるいは他の一根において三昧から出て人々に説き(注:仮にあたる)、あるいは一根において三昧に入りもせず出もしない(注:中にあたる)。他の各根もまた同様である。あるいはこの一根の対象である一塵において三昧に入り、あるいは、他の一塵において三昧から出て人々に説く。あるいは一塵において三昧に入りまた出て、あるいは一塵において三昧に入りもせず出もしない。他の各塵もまた同様である。あるいはこの方角において三昧に入り、あるいは他の方角において三昧から出て人々に説く。あるいは一つの方角において、三昧に入りまた出て、あるいは一つの方角において三昧に入りもせず出もしない。あるいは一物において三昧に入り、あるいは一物において三昧から出て人々に説く。あるいは一物において、三昧に入りまた出て、あるいは一物において三昧に入りもせず出もしない」。

もしこれを詳しく説けば、ただ一根、一塵においてただちに三昧に入り、ただちに出で、ただちに三昧に入りまた出て、ただちに入りもせず出もしない。主体として一つ一つに自在である。また、主体が存在する環境においても、また同様である。これを、円の功徳をもって自在に荘厳すると名付ける。

(注:仏や菩薩が衆生を導く場合、必ずそれは空を観じる三昧が基礎となる。しかし、三昧に入ったままでは衆生を導けない。そのため、三昧から出て、仮である世に仮の姿をもって出て教えを説くのである。さらに、空や仮に執着を起こすことはなく、常に中道に立つ。そのことを、三昧に入りもせず出もしない、と表現しているのである)。

たとえば、日光が四つの大陸を回る際、一方は中、一方は旦、一方は夕、一方は夜半となる。その太陽が巡る様子は同じではないが、ただこれは同じ日に起ることであり、しかも四つの場所で異なって見えるようなものである。菩薩の自在もまたこのようである。

円の力用をもって衆生を悟りに導くとは何か。

一光を放って、衆生が即空・即仮・即中の利益を得、三昧に入る出る、入りまた出る、入りもせず出もしないという利益を得させる。菩薩の行・住・坐・臥・語・黙のさまざまな行為においても同様である。仏法と縁のある者は見る。それは目の光を見るように明らかである。縁のない者にはわからない。目の見えない人は常に暗い。このために、龍王をあげて喩えとする。高さは六天にまで遍く、横は四つの大陸すべてに渡り、あらゆる雲を起こし、あらゆる雷鳴を轟かせ、あらゆる稲光を輝かせ、あらゆる雨を降らすが、龍自身は龍宮において動かず、揺がず、しかも一切の場において働きを現わすが、それらは同じではない。菩薩もまた同様である。内に自ら即空・即仮・即中に通達し、法性から動がずに、しかもあらゆる利益を得させ、あらゆる働きを得させる。これを円の力用をもって衆生を悟りに導くと名付ける。

最初に発心する時がこのようである。ましてや中ごろ、そして後の心ではどのようであろうか。如来は親しくこの法を称賛し、聞く者は歓喜する。常啼菩薩は東に教えを求め、善財童子は南に善知識(ぜんちしき・教え導いてくれる人)を求め、薬王菩薩は手を焼いて供養し、普明王は首をはねられそうになった。一日に三度も大河の砂の数ほど多くの身を捨てたとしても、それでも経典の一句の力に報いることはできない。ましてや、両肩に荷物を負って百千万劫過ぎたとしても、どうして仏法の恩に報いることができるだろうか。一経の一説はこのようである。他の経典もまた同様である。

疑う者が言う。「他の三昧についても、願わくば真実の証を聞きたい」と。

しかし、経論は非常に広く多い。詳しく引いて述べることはできない。ここでは、概略的に二つのことを挙げる。

維摩経』には、「最初、仏は菩提樹の下に座って、力は魔を降し、甘露なる滅を得て、覚道を成就した。三度、教えをすべての世界に向けて説いたが、その教えは本来常に清浄である。天人たちは道を得る」とある。これを証とする。仏法僧の三宝は、ここにおいて世間に現われた。これはすなわち、漸教の始めである。

また、「仏は一つの声をもって法を説いたが、衆生はそれぞれの能力に従って、それぞれの理解を得て、ある者は恐怖し、ある者は歓喜し、ある者はこの世を厭離する心を生じ、ある者は疑いを断つ。これはすなわち、神通力によって、すべての人を同じく教えないことである」とある。これは不定教の証である。

また、「有を説かず、また無を説かず、すべては因縁によって生じると説く。我なく、造るところなく、受ける者はないが、善悪の業はなくならない」とある。これ頓教を証するものである。

大品般若経』に、「次第の行、次第の学、次第の道」とある。これは漸教の証である。また、「多くの色をもって摩尼珠を包み、これを水中に置けば物に従って色が変わる」とある。これ不定教の証である。また、「初発心と同時に道場に坐り、教えの法輪を転じて衆生を悟りに導く」とある。これは頓教の証である。

法華経』に、「このような人は、まさにこの法をもって、次第に仏の智慧に入るであろう」とある。これは漸教の証である。また、「もしこの教えを信じなければ、他の深い教えの中において示し教え利益し喜ばせよ」とある。これは不定の証である。また、「まさに方便を捨てて、ただ無上道を説く」とある。これは頓教の証である。

『涅槃経』に、「牛より乳を出し、そして醍醐」とある。これは漸教の証である。また、「毒を乳の中に入れれば、乳は人を殺し、そして醍醐に入れれば、醍醐は人を殺す」とある。これは不定教の証である。また、「雪山に草あり。名づけて忍辱という。牛がもしこれを食べれば、ただちに醍醐を得る」とある。これは頓教の証である。

無量義経』に、「仏は、教えを説く際、わずかな水滴が落ちて、あらゆる欲望の塵を流し落とし、涅槃の門を開いて、解脱の風を吹かせ、世の悩みの熱を除いて、教えの清い涼しさを与える。次に十二の因縁の雨を降らして、無明の地に注ぎ、邪見の光をさえぎる。後に無上の大乗の教えを注ぎ、遍くすべての人に菩提心を起こさせる」とある。これは漸教の証である。

華厳経』に、「娑伽羅龍(しゃからりゅう)は車軸のような雨を海に降らすが、それは他の地では耐えられない。高い能力の人のために、円満の修多羅を説くが、それに対しては、二乗は耳の聞こえない人や口のきけない人のようだ」とある。『維摩経』に、「瞻蔔林(せんぷくりん)に入れば、その香りだけで、他の香りはしない。この部屋に入る者は、ただ諸仏の功徳の香りだけをかぐ」とある。『首楞厳経』に、「一万種もの香を砕いて丸とし、もし一塵を焼けばあらゆる香りが具わる」とある。『大品般若経』に、「一切種智をもって一切法を知ろうとすれば、まさに般若波羅蜜を学ぶべきである」とある。『法華経』に、「合掌して敬心をもって具足の道を聞こうと願う」とある。『涅槃経』に、「たとえば、人が大海にあって水浴するようなものである。まさに知るべきである。この人はすでにあらゆる河川の水を用いている」とある。『華厳経』に、「たとえば、太陽が昇り、先ず高山を照らし、次に幽谷を照らし、次に平地を照らすようなものである」とある。平地は不定教である。幽谷は漸教である。高山は頓教である。

これらはすべて仏の尊い言葉であり、三世如来の尊重される教えである。過去の過去、久遠の久遠は遥かであって始まりがない。現在の現在は果てしなく際限がない。未来の未来は巡り巡って極みがない。過去、現在、未来は考えの及ぶところではない。まさに知るべきである。止観は諸仏の師である。教えは常(じょう・常楽我浄の第一)であるために、諸仏もまた常である。楽我浄などもまたまたこのようである。このような経文の引用による証は、信じられないことがあろうか。