大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

『摩訶止観』抄訳 その8

『摩訶止観』巻第一の上 「序分縁起」の段より

 

止観の明静であることは、まさに前代未聞である。

天台智者大師は、大隋開皇十四年四月二十六日より、荊州の玉泉寺において、一夏(いちげ・夏安居(げあんご)の期間・四月中旬から七月中旬ごろ)の期間に、朝と夕の二回にわたって講述された。しかし、熱意をもって語られたが、第七章七節の諸見境まで講述されたところで止められ、それ以降は語られていない。

ここで、川の流れの水をくんで水源を尋ね、香をかいでその元を知ろう。『大智度論』に、「私の修行に師匠はない」とある。また経典には、「(釈迦は)仏になる記を定光仏(=燃灯仏)から受けた」とある。『論語』には、「生まれながらにして知る者は能力の高い者である。学んで知る者はそれに次いで良い」とある。法門は広く妙なるものである。まさに天真独朗(てんしんどくろう・絶対的次元の真理は唯一澄んだものであるという意味)と言うべきか、青は藍より出でて藍より青しと言うべきか。修行者は教えの伝承について聞けば、その根源を知るであろう。

大覚世尊(だいがくせそん・釈迦のこと)は、過去世において何劫にもわたる修行を積んで、この世においては六年間の修行をもって見惑を抑制し、魔の誘惑を指一本立てることにより降伏された。そして最初は鹿野苑において、中期は霊鷲山、そして最後は沙羅双樹において説法された。

世尊は法(ほう・法にはさまざまな意味があるが、ここでは釈迦の教えの中心をなす真理を指す)を摩訶迦葉に委ねた。摩訶迦葉は世尊の遺骨である舎利を八等分して、経・律・論の三蔵を結集(けつじゅう・教えをまとめて編纂すること。最初は文字にはされず、暗唱から暗唱へと受け継がれた)した。摩訶迦葉は法を阿難(あなん)に委ねた。阿難は川の中で風奮迅三昧に入って、その身を四つに分けた。阿難は法を商那和修(しょうなわしゅ)に委ねた。商那和修は手から甘露を降らし、五百の法門を説いた。商那和修は法を毱多(きくた)に委ねた。毱多は俗世にあって三果(さんか・阿羅漢の四果の中の第三)を得ていたが、出家して戒律を受けて四果を得た。毱多は法を提迦多(だいかた)に委ねた。提迦多は出家して受戒の壇に登った時に初果を得て、戒律を受ける問答を三度する中で四果を得た。提迦多は法を弥遮迦(みしゃか)に委ねた。弥遮迦は仏駄難提(ぶっだなんだい)に委ねた。仏駄難提は仏駄蜜多(ぶっだみった)に委ねた。仏駄蜜多は王に仏法に帰依させ、占い師を降伏した。仏駄蜜多は法を脇比丘に委ねた。脇比丘は母胎から出た時にすでに髪の毛は白く、手から光を放って経典を取った。脇比丘は法を富那奢(ふなしゃ)に委ねた。富那奢は馬鳴(めみょう)と論じて勝ち、馬鳴に髪を剃らせて弟子とした。馬鳴は頼吨和羅妓(らいたわらぎ・馬鳴が作った楽器)を作る。その音は無常・苦・空を奏で、聞く者は道を悟る。馬鳴は法を毘羅(びら)に委ねた。毘羅は『無我論』を著わし、この論を読む者の邪見は消滅した。毘羅は法を龍樹に委ねた。生身としては樹の下で生まれ、龍が成道を助けたのでこの名がある。龍樹は法を提婆(だいば)に委ねた。提婆は天眼を砕いて万の肉眼を施した。提婆は法を羅睺羅(らごら)に委ねた。羅睺羅は『鬼名』という書を著わし、外道を降伏した。羅睺羅は法を僧佉難提(そうきゃなんだい)に委ねた。僧佉難提は偈を説いて阿羅漢を試みた。僧佉難提は法を僧佉耶奢(そうきゃやしゃ)に委ねた。僧佉耶奢は海に遊び城を見て偈を説いた。僧佉耶奢は法を鳩摩羅駄(くまらだ)に委ねた。鳩摩羅駄は万騎を見て馬の色を記し、人の名を得て衣を分別した。鳩摩羅駄は法を闍夜那(じゃやな)に委ねた。闍夜那は重罪を犯した人のために火坑を作り、そこに入れて懺悔させたところ、火坑は池となってその罪は消滅した。闍夜那は法を盤駄(ばんだ)に委ねた。盤駄は法を摩奴羅(まぬら)に委ねた。摩奴羅は大河を二つに分け、自ら片方に変化した。摩奴羅は法を鶴勒夜那(かくろくやな)に委ねた。鶴勒夜那は法を師子(しし)に委ねた。師子は檀弥羅王(だんみらおう)に殺された。師子を剣で斬ると乳が流れた。

法を委ねられた人は、始めの摩訶迦葉より、終わり師子まで二十三人、末田地(までんち)は商那和修と同時である。この末田地を入れれば、すなわち二十四人となる。この諸師については、みな仏の言葉が記したところである。

(注:以上、摩訶迦葉から師子に至るまでの法の系譜は、『付法蔵因縁伝』によるものである。『付法蔵因縁伝』のサンスクリット原典はなく、もちろん歴史的釈迦が説いたものであるはずがない。また、真理はどこにも遍満するものであり、したがって、真理を表わした教えは、師匠から弟子へと受け継がれるようなものでもない。しかし、かと言って、適当に自分は釈迦の法を受け継ぐ者だというものが百出しては、仏教教団が成り立たない。そのような現実的な問題もあり、このような伝記が創作されたのであろう。そして『摩訶止観』の最初の箇所にこのことが記されることによって、天台大師は釈迦からの法を受け継ぐ者であるということを証明しようとしていることは言うまでもない)。

さらにみな聖人であり、人々によく多くの利益を与えた。昔の王は、死刑をする際に用いた象の厩は、寺の近くに建てると象が人を殺さないようになってしまうので、その厩は屠殺場に建てるようにした。ましてや、良い世に聖人に会うならば、どうして利益がないことがあろうか。また、ある婆羅門が髑髏を売っていたが、ある在家信者がその髑髏を買う際、耳の穴に針金を入れて、その穴が通じるもの、中途まで通じるもの、全く通じないものを分けて、それぞれの値段を変えた。穴が通じるものは、生前、仏の教えを聞いた者だとして、塔を建て供養して礼拝した。そのため、その者は天に生まれたという。仏の教えを聞く功徳はこのようである。仏はこの利益のために、法蔵を委ねたのである。

この止観を通して、天台智者大師は自らの心中で行なわれたところの法門を説かれた。

この天台智者大師は、生まれた時、光が部屋に満ち、その目には双瞳(そうどう・瞳が二つあるように見えること。偉大な人物のしるしとされるが、もう一つは眼の中のほくろとも考えられる)があった。後に『法華経』に基づく懺法(せんぼう・懺悔を中心とした修行)を行じて陀羅尼を発し、法を受ける師の代わりに、金字で記された『般若経』を講述された。陳と隋の二国の王は、天台大師を崇めて皇帝の師とした。安らかな禅定のうちに息を引取られたが、自らその行位は五品弟子位にあるとされた。このために、『法華経』には、「四百万億那由佗の国の人に対して、各人にみな七宝を与え、また教化して六神通を得させたとしても、この経典を聞いて最初に随喜した人の功徳は、その百千万倍である」とある。ましてや、五品弟子位はどれくらいの功徳であろうか。また、「すなわち(この人は)如来が遣わされ所で、如来の事を行じる(如来の使いである)」とある。また『涅槃経』には、「これ初依(しょえ・人々の拠り所となる四種の菩薩(四依の菩薩)の第一)の菩薩である」とある。

天台智者大師は、南岳慧思禅師に師事された。南岳慧思禅師の徳行は、人の考えも及ばないほど大きなものである。十年間、もっぱら経典を読誦し、七年間は大乗を修し、九年間は常に坐り、忽然として円教を悟り、大乗と小乗の法門を深く明らかに洞察することを得た。この南岳慧思禅師は慧文禅師に師事していた。慧文禅師は北斉の世にあって、河北と淮南の地に独歩した。その法門は世の人が知ることのできないものであった。地を踏み天を仰ぎ見れば、その天の高さと地の厚さは、人が知ることのできないものであることがわかる。慧文禅師の教えの中心は、ひたすら『大智度論』に依る。この論は龍樹の説くところであり、龍樹は、上に記した付法蔵の中の第十三の師である。天台智者大師の『観心論』に、「龍樹師に帰命したてまつる」とある。このことから、龍樹は高祖師であることがわかる。

疑う者が、「龍樹の『中論』は、空の思想によってすべてを否定するが、止観は実相を立てる。どうしてこれが同じなのであろうか」と言う。しかし、インドの注釈家たちの論書には、およそ七十の流れがある。まさに青目(しょうもく・『中論』の注釈家)だけを正しいとして、他の諸師は誤りであるとするべきではない。また『中論』に、「因縁によって生じるところのすべてについて、私はこれを空であると説く。またこれを仮名とする。またこれを中道の義であるとする」とある。