大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

種種御振舞御書 その4

種種御振舞御書 その4

 

去る文永八年(1271)九月十二日に、幕府からの迫害を被った。その時の迫害は、尋常ではなく非常識極まりないものであった。

了行(りょうこう・幕府転覆の陰謀を企てた僧侶)が謀反を起こし、大夫の律師(だいぶのりっし・鎌倉幕府創建時に活躍した三浦義村の子。出家して良賢と名乗っていた。三浦氏が滅ぼされる時に捕らえられた)が世を乱そうとしていたところを捕えたことをも超えるものである。平左衛門尉が大将となって、数百人の兵士に胴丸と烏帽子を着けさせて、眼をいからし声を荒げてやって来たのである。

そもそもこのことを考えれば、太政入道の平清盛が天下を取りながら、国を滅ぼそうとしたことに似て、ただ事と見えなかった。日蓮はこれを見て、「日ごろ月ごろ、常に覚悟していたことはこれである。幸いなことだ。『法華経』のために身を捨てられるのである。臭い首を斬られるならば、砂が黄金となり、石をもって珠を買うようなものだ」と思った。

さて、平左衛門尉の家来の一人である少輔房(しょううぼう・この名から見て、もと日蓮上人の門下にいながら、後に敵対する側に回った者の可能性がある)という者が走り寄って来て、日蓮の懐中にあった『法華経』の第五巻を取り出して、顔を三度殴り、経典を粉々にした。また九巻の『法華経』(注:『法華経』は八巻であるが、開経の『無量義経』と結経の『観普賢菩薩行法経』の二巻を合わせて全部で十巻とし、第五巻がすでに破られていたので、残りが九巻となっていたという意味か)を兵士たちは打ち散らかして、ある者は足で踏み、ある者は身体に巻き、ある者は板敷や畳などの家の二三間に隙間なく散らかした。日蓮は高声で、「なんとおもしろいことか。平左衛門尉が狂っている姿を見よ。あなたがたは、今、日本国の柱を倒しているのだ」と叫べば、そこにいたすべての者たちは慌て始めたように見えた。日蓮の方こそ迫害にあっているので慌てるべきであるが、そうではなくて、彼らは「これは悪いことをしているのではないか」と思ったようである。兵士たちは顔色を変えたように見えた(注:常識的に見ても、このような言葉で相手が慌てるとは考えられない)。

日蓮は平左衛門尉に対して、十日と、この捕らえられた十二日にも、真言宗禅宗や念仏などの誤り、また良観が雨ごいをしても雨が降らなかったことなど言い聞かせたが、ある者はわっと笑い、ある者は怒るなどしたが、これらのことは煩わしいので記さない。つまり、六月十八日より七月四日まで、良観は雨ごいの祈りをしたが、日蓮に阻止されて降らすことができなかったのである。その時、良観は、なかなか雨が降らないので、汗や涙ばかり流した。さらに雨が降らない上に、逆風が絶えず吹きまくった。日蓮は三度も使いを送って、「一丈の堀を越えられない者は、十丈二十丈の堀を越えることができるか。好色の和泉式部は、八斎戒(はっさいかい・在家信者が特定の一日に限って戒律を守る行事)に禁止されていた歌を詠んで雨を降らし、能因法師(のういんほっし・平安時代歌人)が破戒の身でありながら、歌を詠んで雨を降らせたが、どうして二百五十戒の戒律を守っている人々が百千人も集まって、七日間も十四日間も祈っても、雨は降らずに大風ばかり吹くのだろうか。これをもって知るべきである。あなたがたの往生はかなわないであろう」と責めたので、良観が泣いたこと、そしてそれを恨んで人々に讒言したことなど、ひとつひとつ平左衛門尉たちに言った。彼らは良観の肩を持とうとしたが、そうもできなかったことなど数多くあるので、それらは記さない。

(注:どう考えても、これが事実だとしたら、単に日蓮上人は、雨ごいの祈りで苦労している良観をからかったに過ぎないことになる。日蓮上人が代わりに雨ごいをして、それで雨が降ったならそれはそれで相手に勝った、ということにもなるが、そうもしていない。ところが、日蓮上人を崇拝する者たちは、これを雨ごい対決で勝利したことにさえしている)。