大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

種種御振舞御書 その9

種種御振舞御書 その9

 

(注:前の段落は、さまざまな人々からの迫害があったからこそ、自分は『法華経』の行者となれたのだ、という内容であり、多くの経典や経論からの引用、そして中国や日本の史実を交えて記されていた。ところが、この段落からは、再び単なる小説のような文体と変わる。それはここからまた、後に創作して挿入された文となるからである)。

このように過ごしていたが、庭には雪が積もって、人も来ることもなく、堂宇には荒々しい隙間風以外に訪れる者もない。『摩訶止観』や『法華経』を読み、口には「南無妙法蓮華経」と唱えて、夜は月星に向って、諸宗の誤りと『法華経』の深い意義を説くほどに、年も改まった。

どこでも人の心は浅はかなもので、佐渡の国の真言律宗や念仏者の唯阿弥陀仏・生喩房(しょうゆぼう)・印性房(いんしょうぼう)・慈道房(じどうぼう)たち、数百人が寄り合って協議していると聞いた。

「以前から聞いていた阿弥陀仏の大怨敵(おんてき)であり、一切衆生の悪知識の日蓮房がこの国に流されて来ている。どのような場合であっても、この国に流罪となった人は、最後まで生きていられたためしがない。たとい生きられたとしても、帰ることはない。またそのような流人を殺しても、罪とはならない。日蓮は塚原という所に一人でいる。いくら強い者であっても、他に人がいない場所であるから、集まって射殺してしまえ」という者もあった。

また、「とにかく首が切られるべきところ、執権殿の奥様がご懐妊になられたので、しばらく切られることはないが、いずれは切られると聞いている」。

また、「六郎左衛門尉殿に願い出て、それでも切られなかったら、私たちでやろうではないか」という者もいた。

このように多くの意見が出て、この件について守護所に数百人が集まった。

しかし、六郎左衛門尉は、「お上より、殺さないようにとの副状(そえじょう)が下っているので、軽んじるべき流人ではない。過ちを犯すならば、この本間重連の大いなる過失となってしまう。それよりは法門で責めるが良いであろう」と言ったので、念仏者たちは『浄土三部経』、あるいは天台宗の者は『摩訶止観』、あるいは真言宗の者はその経論を、小僧たちの首にかけさせたり脇にはさませたりして、正月十六日に集まって来た。

佐渡の国のみならず、越後・越中・出羽・奥州・信濃などの国々より集まった法師たちであり、塚原の堂宇の大庭から山野にかけて数百人、さらに六郎左衛門尉とその兄弟一家、さらに百姓の入道など数知れず集まった。

(注:このようなことはまず考えられない。日蓮上人が佐渡流罪となるまでの迫害は、あくまでも幕府の平頼綱の方針であり、全国の僧侶たちの合意などではなく、そこまで日蓮上人のうわさが広まっていたとは到底考えられない。そのため、これほどの大人数の、それも全国から佐渡に集まった、ということは、全くあり得ないことである)。

念仏者は口々に謗り、真言宗の法師は顔色を変え、天台宗の法師は自らの教えこそ勝れているということを主張し罵った。在家の者たちは、「かねてから聞いていた阿弥陀仏の敵だ」と罵り、騒ぎ、その声が響き渡ることは、まるで地震か雷鳴のようであった。

日蓮はしばらく騒がせておいた後、「あのおの方、静まるがよい。法門のために来られたのだから、悪口などは意味のないことではないか」と言えば、六郎左衛門をはじめ人々は、その通りだと言って、悪口を言う念仏者の首をつかんでつまみ出した。

(注:常識的にも、このような一言で、敵対する者が出されるとは考えられず、あまりにもお粗末な記述である)。

さて、天台止観・真言・念仏の法門を、ひとつひとつ相手が言うことを、念を押して承服しておいてから、少々それより先を突き詰めると、相手はみな一問か二問で詰まってしまった。鎌倉の真言師・禅宗の者・念仏者・天台の者よりも、不甲斐ない者たちであり、そのことを想像するがよい。それは、鋭い剣をもって瓜を切り、大風が草をなびかせるようなものである。彼らは仏法をよくわかっておらず、そればかりか、自語相違し、ある者は経文を忘れて、それを論書と言い、経典解釈を忘れて、それを論書と言う。さらに、善導が首をくくって柳より落ち、弘法大師の三鈷を投げて、それが大日如来と現われた、というような、妄語や狂った点をひとつひとつ責めれば、ある者は謗り、ある者は口を閉じ、ある者は顔色を失い、ある者は「念仏は間違いであった」という者もあり、あるいはその場で袈裟や平念珠を捨てて念仏は称えまいという内容の誓約状を立てる者もあった。

(注:言うまでもなく余りにもお粗末な内容である。そもそも、日蓮上人ならば、具体的に教えの内容を簡潔にも記すはずであるが、そのようなことは一言も記されていない。創作者は、それほど教義について詳しくないようである。何よりも、塚原においては、阿仏坊日得の入信をまず記さねばならないはずである。順徳天皇に仕え、承久の乱の後、佐渡流罪となった天皇と共に佐渡に入り、最初熱心な念仏者であった阿仏坊は、伝承されているように、日蓮上人を尋ねて、論争のようなものを試みた可能性はある。しかしすぐに日蓮上人の言葉を受け入れ、念仏を捨て入信し、妻の千日尼と共に上人に仕えた。そして、阿仏坊夫婦と親しかったからであろう、国府入道夫婦の入信があり、それから、日蓮上人が身延に入ってからでさえ、この二組の夫婦は直接訪ねて行ったり、捧げ物を送ったりなど、献身的に仕え続けた。もしこの二組の夫婦がいなかったら、佐渡日蓮上人が命をつなげたかどうかわからないであろう。さらに、佐渡に瀧王丸という者を送って仕えさせた鎌倉の妙一尼の存在もある。そのようなことも記さず、あり得ないほどの派手な論争のことばかり記すということは、日蓮上人を崇拝する後の者の創作であることが明らかとなるのである。創作者にとって、なるべく佐渡では日蓮上人は大いに苦労し、その苦労を乗り越えた英雄でなければならないのである)。

こうして、みな帰ったので、六郎左衛門尉も一家の者も帰って行った。

しかし、日蓮は国に関する予言を一つ言おうと思い、六郎左衛門尉を大庭より呼び帰して、「いつ鎌倉へ上られるのか」と言うと、彼が答えて、「下人どもに農事をさせて、七月ごろになるでしょう」と言った。そこで日蓮は、「弓矢を取る者は、公の大事に手柄を立てて、所領を賜ってこそ田畠を作ることができるのではないか。ただ今、戦(いくさ)が起ころうとしているのに、急いで上って手柄を立てて所領を賜らないのか。さすがにあなた方は相模の国では名の知れた侍である。それが田舎で田を作って、戦に間に合わなかったら恥であろう」と言ったところ、どう思ったのか、あわてて物も言わず、そこにいた念仏者・真言律宗・在家の信者たちも、これはどういうことかと怪しんだ。

(注:このように、本間重連を人々の前で恥じ入らせることも、全く礼儀知らずの行為である。信心に対しては激しくても、同時に相手の立場を尊重し配慮する日蓮上人の言動とは思えない)。