大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

種種御振舞御書 その5

種種御振舞御書 その5

 

そして、十二日の夜、武蔵守殿(注:北条宣時)に預けられた身となっていたが、夜半になって、首を切られるために鎌倉から出た。若宮小路(=若宮大路)に出た時、周りは兵士に囲まれていたが、日蓮は、「おのおの方、騒がないでもらいたい。ほかでもない。八幡大菩薩に最後に申し上げることがある」と言って、馬より降りて大声で叫んだ。

「いかに八幡大菩薩はまことの神か。和気清麻呂(わけのきよまろ)が首をはねられそうになった時、長さ一丈の月と現われ、伝教大師の『法華経』を講義された時は、紫の袈裟を布施されたではないか。今、日蓮は日本で第一の『法華経』の行者である。その上、身に一分の誤りもない。日本国の一切衆生が『法華経』を謗(そし)って、無間地獄に堕ちるところを助けるために法門を説いている。また、大蒙古国がこの国を攻めるならば、天照大御神八幡大菩薩も、安穏にはおられないではないか。その上、釈迦仏が『法華経』を説かれ、多宝仏や十方の諸仏や菩薩たちが、太陽や月や星や鏡が並べられたように集まり、さらに、無量の諸天ならびにインド、中国、日本国などの善神聖人があつまった時、釈迦仏は、おのおの、『法華経』の行者を疎かにしないという誓約状を出すように語られ、それぞれ誓約状を立てられたではないか(注:誓約状のような記述は『法華経』にはないが、諸天善神は、『法華経』を保つ者を守護する、という誓いを立てた、ということは述べられている)。そうであるならば、日蓮も言うまでもない。急ぎ急ぎ、その誓約状の宿願を遂げられるべきであるにもかかわらず、どうしてこの場所におられないのか」と言った。

そして最後には、「日蓮が今夜、首を切られて、霊山浄土へ参るならば、まず、天照大御神八幡大菩薩はその誓いを果たされなかったと、名指しで教主釈尊に申し上げるつもりである。それを痛いと思われるならば、急ぎ急ぎ、その御計らいのあるべきではないか」と言って、また馬に乗った(注:とても戯曲的にはおもしろい内容であるが、どう考えても実際にあったこととは思えない。何よりも、これほど派手な言動を発したならば、他の日蓮上人の書にも見られるはずであるが、もちろんそのような箇所は皆無である)。

由比ヶ浜(ゆいがはま)へ出て御霊神社(ごりょうじんじゃ)の前に至って、また日蓮は、「しばらく殿方、ここに知らせるべき人がいる」と言って、中務(なかつかさ)三郎左衛門尉(注:四条頼基のこと。武士であり、日蓮の有力な弟子の一人。四条金吾とも言われる。佐渡島で記された『開目抄』はこの人物宛に送られたものである)という者のところへ、熊王という童子を遣わしたが、彼は急いで出て来た(注:これも戯曲的におもしろいが、このように首を切られようとする者が、いろいろ願い出て聞かれるわけがないであろう)。そこで日蓮は、「今夜、首が切られる。この数年間、このことを願ってきた。この娑婆世界で、雉と生まれた時は鷹に捕らえられ、鼠と生まれた時は猫に食べられた。また、妻子のために敵に殺されたことは、大地の微塵の数より多い(注:仏教の考え方では、人間として生まれて来ることは非常にまれなことだといい、さらに人間として生まれても、仏の教えに出会うことはさらにまれなことだとする。したがって、他の生では雉にも鼠にも転生し、また人間に生まれても、一般人として生きたことも数限りないことだ、という意味である)。しかし、『法華経』のためには一度も命を失うことはなかった。そのために、日蓮は貧しい者として生れて、父母の孝養も思うままにできず、国の恩にも報いる力もないのである。ここで首を『法華経』に奉って、その功徳を父母に回向して、その余りは弟子や檀那たちに分け与えよう。いつも言っていたことはまさにこれである」と言ったところ、左衛門尉とその兄弟四人は馬の口に取り付いて、そのまま腰越の龍ノ口に共に行った。

首を切られるのはこのあたりだろうと思っていると、兵士たちがあわただしくなったので、左衛門尉が「まさに今です」と泣いた。そこで日蓮は、「不覚の殿方である。これほどの悦びを笑いなさい。どうして約束を破ることができようか」と言った時、江ノ島の方向から月のように光る物体が鞠(まり)のように、東南から西北の方角へ光り渡った。十二夜の明け方の月もない暗闇で、人の顔も見えなかったが、その物体の光で、満月に照らされたように人々の顔もみな見えるほどだった。太刀を持っていた者の目もくらみ、倒れ伏して、兵士たちは怖気づき、一町ばかり走り逃げ、ある者は馬から下りてかしこまり、ある者は馬の上でうずくまっている。

日蓮は、「どうしたのだ殿方。このような大罪人から遠のくのか。近くに寄れ、近くに寄れ」と呼ばわったが、急いで近寄る人もなかった。「さて、夜が明けてしまったら、どうやって首を切るのか。急いで切れ。夜が明ければ見苦しくなるだろう」と勧めたが、何の返事もなかった。

すると、しばらくして、「相模の依智という所に入ってください」と言われた。日蓮は、「そのような道を知る者もない。先に案内してほしい」と言ったが、案内する人もないので休んでいると、ある兵士が、「これがその道です」と言ったので、その道の通りに進んで行った。

(注:後に身延で記された『報恩抄』の中に、「去ぬる文永八年辛未九月十二日の夜は相模国たつの口にて切らるべかりしが、いかにしてやありけん、其の夜はのびて依智というところへつきぬ」とある。訳すと、「文永八年辛未九月十二日の夜、相模国の龍ノ口で切られるところ、なぜかわかりませんが、その夜は延期されて依智という所に連れて行かれました」となる。

また同じく身延で記された『一谷入道御書』の中に、「又文永八年太歳辛未九月十二日重ねて御勘気を蒙りしが、忽に頸を刎らるべきにてありけるが、子細ありけるかの故に、しばらくのびて・・」とある。訳すと、「また文永八年太歳辛未九月十二日に、再び幕府からの迫害にあい、すぐにでも首を切られるというところであったが、何か理由でもあったのだろう、しばらく伸びて・・」となる。

『種種御振舞御書』に記されているような劇的な出来事があったならば、どうして「いかにしてやありけん」、「子細ありけるかの故に」などと記すだろうか。これは大きな矛盾である。

もちろん、他の日蓮上人の書に、このような出来事に関する記述は皆無である。これを信じて、日蓮上人を崇拝する者たちは、この光は彗星だ、ちょうどこの時、何々彗星が現われた可能性がある、などと論議しているが、それ以前に日蓮上人の書をよく読むべきであろう。龍ノ口で日蓮上人の首が切られようとしたことは事実であるが、これに関しては、これは平頼綱の独断であり、それを知った執権北条時宗は、早馬を出してそれを留めたという説がある)。