大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

種種御振舞御書 その12

種種御振舞御書 その12

 

また念仏者が集まって協議した。

「こうなっては、我々は飢え死にしてしまう。どうやって、この法師を亡き者とすることができようか。すでに国中の者も多くは彼に従っている。どうしたらいいものか」と相談し、念仏者の長者の唯阿弥陀仏真言律宗の長者の性諭房(しょうゆぼう)、良観の弟子の道観などが鎌倉へ走り上って、武蔵守宣時殿(北条宣時)に次のように訴えた。

「この御房が島にいる限り、堂塔一つも残らず、僧侶も一人もいなくなってしまうでしょう。阿弥陀仏を焼き払い、あるいは川に捨て流しています。夜も昼も高い山に登って、日月に向かって大声をあげて、お上を呪詛(じゅそ)しています。その音声は佐渡の国中に響いています」と言った。

武蔵前司宣時殿はこれを聞いて

「お上に申し上げるまでもない。まず佐渡の国中の者が日蓮房につくならば、その者を国から追放し、あるいは牢に入れよ」と、独断の命令を下し、そのような文を通達した。そのようなことが三度もあった。その間のことは、もはや記すことはしないので、推していただきたい。

(注:一谷において、日蓮上人の布教はある程度成功したのであろう。曼荼羅本尊やそれを簡略化したものも、信心の確固たる者には書き与えたと考えられる。また、常に食べ物などを捧げた者にも書き与えた可能性がある。それでは物々交換ではないかと、日蓮上人を崇拝する者たちは言いそうであるが、流人にそのようなことをすること自体、ある意味命がけのことであり、それだけ信心がしっかりしている証拠である。たとえば、『国府尼御前御書』には次のようにある。「しかるに尼ごぜん並びに入道殿は彼の国に有る時は人めををそれて夜中に食ををくり、或る時は国のせめをもはばからず身にもかわらんとせし人人なり」。訳せば、「しかし尼御前ならびに国府入道殿は、佐渡の国にいる時は、人目を避けて夜中に食べ物を送り、ある時は国の責めをも恐れず身代わりとなろうとした人たちです」となる。

こうして、「その音声は佐渡の国中に響いている」とまではいかないにしても、各家からは、題目を称える声も次第に聞かれるようになり、特に念仏者たちにとっては、気が気でならない状態になったことは確かであろう)。

こうして役人たちは、日蓮の居住の前を通ったというだけで牢に入れ、あるいは物を捧げたと言っては島から追放し、あるいは妻子から離したりした。このようなことは、北条宣時の独断であったので、これに反して去る文永十一年二月十四日、幕府から御赦免の書状が発せられ、同年三月八日に島に届いた。

これについて、また念仏者たちが協議し、「これほどの阿弥陀仏の敵であり、善導和尚(ぜんどうわじょう・中国唐の浄土教の大成者)や法然上人を罵るほどの者が、特に幕府に裁かれてこの島に流されたのを、御赦免になったということで、みすみす帰すのは心苦しいことだ」と言って、いろいろと策略を練ろうとしたが、うまくいかなかった。

そして、順風が吹いてきたので、島を出発したが、間合いが悪ければ百日、五十日を経ても渡れないところ、順風であったので、よくても三日かかるところを少しの間に渡ってしまった。

(注:昔の赤泊港は、佐渡の玄関口の一つとして人の出入りも盛んで、2018年までは寺泊港との間に定期旅客航路もあったが、今は特にカニ漁を中心とした漁業の基地となっている。このような港の雰囲気は、大島の波浮港にも感じたが、どこか心が落ち着くのである。平地がそれほどない地形も、波浮港と似ている。

その赤泊港から海岸にそって、少し西に進んだ真浦という所に、「日蓮聖人波題目碑」と呼ばれる碑が立っている。ここは「真浦の津」と呼ばれていたらしく、幕府から赦免された日蓮上人が船出した場所だとされる。伝承によれば、上人が沖に向かう船の上から朝日に向かって合掌すると、波間から「南無妙法蓮華経」の文字が浮かび上がったという。

その碑のすぐ後ろは小さな浜となっている。細かな砂が、打ち寄せる波の音を静かに奏でている。ふと、ここに立った日蓮上人の心に思いを寄せた。上に引用した『国府尼御前御書』の続きの箇所に、「さればつらかりし国なれども、そりたるかみをうしろへひかれ、すすむあしもかへりしぞかし」と美しい文が綴られている。訳すと、「このようなことを思えば、辛かった佐渡ではあったが、剃った髪を後ろに引かれ、進む足も帰りそうになる」となる。阿仏房夫婦、国府入道夫婦をはじめ、多くの人々に助けられ、そして多くの人々が教えを受け入れた。日蓮上人の生涯において、この佐渡での約二年半は、むしろ非常に充実した日々ではなかったかと思う。前にも記したように、どうしても佐渡は苦しみの地としなければ気が済まない人々によって、ゆがんで描写されることが多いのではないだろうか。

このように、真浦の地から海の向こうの本土を見ながら、日蓮上人の心は複雑だったと思う。一方、弟子たちはと言えば、師匠の流罪が赦されたのであるから、喜びこの上なく、いよいよ師も弟子も、中央進出ということで、これから間違いなく、鎌倉幕府の中枢と平等に渡り合える、という希望に満ちていたに違いない。もちろん日蓮上人も、もしかしたら、幕府が今度こそ、自分の進言を受け入れるかもしれない、というわずかな希望もあったに違いない。このわずかながらの希望と、しかし一方は佐渡に対する思いを抱きながら、日蓮上人はこの真浦から船出したのであろう)。

このことを知った越後の国府(こくふ・政務を司る役所が置かれた町)や信濃善光寺の念仏者、真言律宗真言宗の人々は、雲のように集まって話し合った。

「島の法師たちは、彼を今まで生かして帰すとは余りにも情けない。決して善光寺の生身(しょうじん)の阿弥陀仏の御前を通らせてはならない」と協議したけれども、越後の国府から派遣された兵士たちが大勢日蓮を護衛して善光寺を通ったので、彼らは何もできなかった。

こうして三月十三日に島を立って、同年三月二十六日に鎌倉に入った。

同年四月八日に平左衛門尉(平頼綱)に対面した。

前とは打って変って穏やかな態度で、その場にいる他の者たちも礼儀も正しくしていた。そして、ある入道は念仏について質問し、ある俗人は真言宗について質問し、ある人は禅宗について質問した。また、平左衛門尉は『法華経』以外の経典に悟りがあるかないかを質問した。これに対して日蓮は、ひとつひとつについて、経文を引用しながら説いた。

さらに平左衛門尉は、執権から質問するように言われているかのように、大蒙古国はいつ攻めて来るだろうか、と言った。日蓮は次のように答えて言った。

「今年中には必ず攻めて来るでしょう。そのことは、日蓮が以前より申し上げてきたことですが、受け入れられませんでした。それはたとえば、病気の原因を知らない人が、その病気を治そうとすれば、病気はますます悪くなるようなものです。真言宗の僧侶が、大蒙古襲来の調伏を祈るならば、ますますこの国の軍は負けるでしょう。くれぐれも、真言宗の僧侶をはじめ、他の宗派の僧侶をもっても祈ることはしてはなりません。その方々は、仏法を知らないのですから、言ってもわからないのです。

また、不思議なことに、他のこととは異なり、日蓮が申し上げることは用いられませんでした。仕方ないので、後に思い起こされるためにも、今、申し上げます。

隠岐法皇後鳥羽上皇)は天子であり、権大夫殿(北条義時)は民です。子が親を襲えば、天照大御神は受け入れられるでしょうか。従者が主君を敵とすれば、八幡大菩薩は用いられるでしょうか。では、なぜ承久の乱で公家は負けたのでしょうか。これはひとえに、ただ事ではありません。

公家の方々が、弘法大師の誤った教えや、慈覚大師と智証大師の偏った見解を真実だと思われ、比叡山や東寺や園城寺の人々が鎌倉に敵対して野で、『法華経』に「還著於本人(かえって仇が自分に降りかかる)」とあるように、その誤りが自らに降りかかって、公家は負けたのです。しかし一方、武家の方々は、その教えなど知らないので、調伏なども行なわなかったために勝ったのです。

今、また同じようなことが起ころうとしています。

蝦夷(えぞ・幕府の支配下に入ろうとしない東北地方の豪族)は、死生の理法さえ知らない者であり、安藤五郎(=安藤季久・あんどうすえひさ)は、因果の道理をわきまえて、堂塔を多く作った善人です。しかしどうして首を蝦夷に取られたのでしょうか。

こうしたことを考えると、この宗派の御房たちが祈祷するならば、入道殿(注:北条時宗を指すのであろうが、時宗が出家したのは日蓮上人の没後である。このようなところからも、この箇所は後世の挿入であることがわかる)は必ず大事件にあわれると確信します。決して決して、後になって御房はそうは言わなかった、とおっしゃるな」と、したたかに言い渡した。