大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

種種御振舞御書 その8

種種御振舞御書 その8

 

中国の李陵(りりょう・前漢の軍人)が胡国(ここく・中国から見た異民族。匈奴)に入って巌窟(がんくつ)に閉じ込められたのも、法道三蔵(ほうどうさんぞう・永道。北宋の僧)が微宋皇帝(きそうこうてい・北宋の王。仏教弾圧をして永道に諫められた。一度、永道を追放したが、翌年撤回して再び用いた)皇帝に責められて顔に焼き印を押されて、江南に追放されたのも、今と同じだと思う。

ああ嬉しいことだ。檀王(だんおう・釈迦の過去世の須頭檀王(すずだんおう)のこと)は、阿私仙人(あしせんにん・提婆達多の過去世の姿)に仕えて厳しい修行をして、『法華経』の功徳を得られた。常不軽菩薩は増上慢の比丘たちに杖で打たれて一乗の行者と言われた。今、日蓮末法に生れて『妙法蓮華経』の五字を弘めて、このような迫害にあっている。

仏滅後二千二百余年の間、恐らくは天台智者大師も、『法華経』の「この世においては恨まれることが多く、信じることは難しい」という経文通りのことは体験しておらず、「何度も追放される」という経文を明らかに体験したのはただ日蓮一人である。したがって、「『法華経』の一句一偈を私(釈迦)はみな与えて、将来仏となる約束をする」と言われる対象は私であり、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい・最高の悟りというサンスクリット語の音写文字)は疑いない。執権北条時宗こそ善知識(ぜんちしき・仏の教えに導いてくれる人)であり、平左衛門(=平頼綱)こそ提婆達多であり、念仏者は瞿伽利尊者(くぎゃりそんじゃ・提婆達多の弟子)であり、真言律宗は善星比丘(ぜんしょうびく・釈迦の弟子であったが、自分の悟りが最高だとして、釈迦に背いた)であり、今も釈迦世尊の在世の時と同じである。

法華経』の肝心は諸法実相(しょほうじっそう・すべての実在そのままが真理であるという教え)と説かれ、本末究竟等(ほんまつくきょうとう・すべての実在のあり方を十通りに分けた十如是(じゅうにょぜ)の最後)と述べられたことはこれである。『摩訶止観』第五巻に、「修行と教えの理解が進むほどに、三障(さんしょう・修行における三つの妨げ。煩悩障・業障・報障)、四魔(しま・煩悩魔・五蘊魔(ごうんま・認識を乱す魔)・死魔・天魔)などが激しく競い起こる」とあり、また、「そのような妨げは、猪が金山を擦ってますます光らせ、あらゆる川が海に流れ込み、薪が火をさらに盛んにし、風が吹いて虫を太らせるようなものである」とある。これを解釈すれば次の通りである。『法華経』を教えの通りに、能力に従って、時に適って理解し修行すれば、七つの大いなる敵が現われる。その中では、天子魔といって、第六天(だいろくてん・天でありながら、まだ欲望に動かされる次元の最高位)の魔王、あるいは国主、あるいは父母、あるいは妻子、あるいは支持者、あるいは悪人などに取り付いて、あるいはそのような者と共にあって、『法華経』の修行を妨げ、あるいは誤った方向に導くのである。

どの経典を修行しても、仏法を修行する時には、その分に従って困難があるのであるが、その中で『法華経』を修行する際に起こる妨げは、非常に強いのである。さらに『法華経』を教えの通りに、能力に従って時に適って修行する時は、特に困難が大きい。この故に、『止観輔行伝弘決』第八巻に、「もし衆生が生死から出ず、仏乗を慕わないと知れば、魔はその人に対して、さらに親しい思いを生じさせる」とある。解釈すれば、人が善を生じさせる行を修しても、念仏・真言・禅・律などの行をして『法華経』を行じることがなければ、魔王は親しみの思いをもって人間について、その人に対してもてなし、供養する世間の人に本当の僧だと思わせるということである。たとえば、国主が頼みとしている僧を、人々も供養するようなものである。したがって、国主たちが敵対視するということ自体が、すでに正しい行をしている証拠となるのである。

釈迦如来のためには、提婆達多こそ第一の善知識だと『法華経』に説かれている。今の世間を見ると、人に対してよくする者は、味方よりも仏法の強敵の方が、人に対してよくしていることを目の前とするのである。

この鎌倉の御一門の繁栄は、和田義盛(わだよしもり・二代執権北条義時と戦って敗れた)と隠岐法皇(おきのほうおう・後鳥羽天皇のこと。承久の乱で敗れて隠岐の島に流された)とがいたからであり、もしいなかったら、日本の国主とはならなかったであろう。したがって、この人たちは、北条家御一門のためには第一の味方である。日蓮が仏になるための第一の味方は、東条景信(とうじょうかげのぶ・安房国東条郷の地頭。念仏者。日蓮上人を殺害しようと小松原法難を起こした)であり、法師では良観・道隆・道阿弥陀仏(どうあみだぶつ・道教。浄土宗の僧侶)と平左衛門尉・執権北条時宗がいなければ、どうして『法華経』の行者となったことを喜べたであろうか。

(注:実にこのような記述は、日蓮上人独特のものであり、日蓮上人だけが記すことのできる内容と言うべきである。そのため、この箇所は間違いなく、日蓮上人の手によるものと断定できる。ところが次の段落から、また突然、創作としか言いようがない記述となるのである)。