大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

種種御振舞御書 その7

種種御振舞御書 その7

 

同年十月十日に依智を立って十月二十八日に佐渡の国へ着いた。

(注:『寺泊御書』の冒頭には、「今月十月なり十日相州愛京郡依智の郷を起つて武蔵の国久目河の宿に付き、十二日を経て越後の国寺泊の津に付きぬ。此れより大海を亘つて佐渡の国に至らんと欲するに、順風定まらず、其の期を知らず、道の間の事心も及ぶこと莫く、又筆にも及ばず。但暗に推し度る可し。又本より存知の上なれば、始めて歎く可きに非ざれば之を止む」とある。訳すと、「今月十日(文永八年・1271)、相州愛京郡依智の郷(現在の神奈川県厚木市)を出発して、武蔵国久目河の宿(現在の東京都東村山市)に着き、十二日間を経て、越後国の寺泊の港に着きました。これから海を渡って佐渡に行こうとしていますが、風が定まらず、いつになるかわかりません。ここまでの旅路を振り返っただけでも、言葉にも文字にもできないほどです。どうかお察しください。またもちろん、このようなことは覚悟の上です。今更嘆くことでもないので、これ以上は書きません」となる。

依智から寺泊に至るまでの行程も、筆舌に尽くしがたい苦難を経験したとある。『種種御振舞御書』は、日蓮上人の苦難を強調する傾向にあるため、依智から寺泊までの苦労も当然書かれるべき内容であろう。しかし、書くためにはある程度、その通過した地への知識がなければならない。さすがに創作者にはそれが全くなかったのであろう。寺泊についてもなかったようで、依智から佐渡へ、一気に記事が飛んでいる。これも大変不自然なことである。

ところが、この箇所以降はしばらく、再び日蓮上人が記す文の特徴が表われている記述となる。つまり、経典や経論、また中国の故事などの引用が多くなり、それに基づいた言葉が連続する。

したがって、幕府から呼び出され、松葉ヶ谷の襲撃と逮捕、そして龍ノ口から依智を出立するまでの、それこそ奇跡が連続する箇所は、後に挿入された創作と考えられるのである。そして佐渡に到着してからの内容は、しばらく日蓮上人の特徴のある文が続いたかと思えば、後に再び創作者が挿入したと思われる文となる。『種種御振舞御書』は、このように、日蓮上人の記した箇所と、創作者の挿入した箇所が入り混じる構成となっていると考えられる)。

十一月一日に、本間六郎左衛門の家の後ろの塚原という山野の中にある、京都の蓮台野のように、死人を捨てる場所にある、一間四面の堂に入ったが、ここには仏もない。

(注:日蓮上人は、佐渡に着いた四日後に塚原の三昧堂と呼ばれる粗末な堂宇に入った。三昧堂と言われるゆえんは、恵心僧都源信極楽往生を願う人々と始めた二十五三昧会に由来するのであろう。京都の蓮台野においても、死人が極楽に往生できるよう、二十五三昧会が修されていたという。そして、その場所が、本間重連の家の後ろにあった、ということも、ある程度、本間重連の目の届く範囲に日蓮上人を置く、ということだったに違いない。ちょうどそこに誰も住んでいない堂宇があったので、それを使用することにしたのだろう。

日蓮上人は、現在、松ヶ崎と呼ばれる所にあった港に着いたが、そこから塚原までは、真っすぐ山地を越えて行ったと考えられる。塚原は、佐渡島の南の小佐渡山地(こさどさんち)と呼ばれる山地が、中央の国中平野(くになかへいや)と接する所にある。つまりその山地を越えてすぐの場所となる。海岸線をつたって回り込む方法もあるが、それでは大変な遠回りとなる。しかし、その山地は、標高は最高でも645メートルほどであるが、大小さまざまな山と谷が入り組んだ、大変険しい地形となっており、そこを越えるだけでも、非常に困難だったと考えられる。港に着いて、すぐに山越えとなったわけではないであろうが、長旅で疲れた日蓮上人にとって、その険しい道がどれほどのものであったか、察するに余りある)。

(補足:松ヶ崎は大変静かな岬である。日蓮上人当時は、ここが佐渡島の入口の一つであった。しかしそこにあった港は、周囲の水深が浅いため、特に金山が開発されてからは大きな船がつくことができないということで、その役割を西にある小木港(おぎこう)に譲り、その姿を消した。現在は、白いきれいな灯台がある整備された公園となっている。その海岸は、ある程度テトラポットで保護されているが、それでも十石十色(じゅっせきといろ)と呼ばれるさまざまな種類の丸い石が敷きつめられた、美しい海岸を形成している。

そして真っすぐ本土の方を見ると、弥彦山がどっしりと構えているのがよく見える。弥彦山の麓が寺泊であるので、やはり、寺泊から船が最短距離で真っすぐここに向かって来たことを、目には見えない海の道が教えてくれる。ここに上陸した日蓮上人は、さすがに「ここが終わりの地か」という思いもよぎったことであろうが、同時に、「新しい始まり」という思いも沸いて来たのではないか、と想像する。そして実際、佐渡島が新しい始まりの地となったわけである)。

天井は板間が合わず、四面の壁は隙間だらけで、雪が降り積もって消えることがない。こういう所に敷皮を敷いて、蓑を着て夜を明かし、日を送った。夜は雪や霰(あられ)、そして雷の音と稲妻が絶え間ない。昼は日の光も差し込まず、心細い住居である。

(注:冬の日本海は雷雲がよく発生する。それは暖流である対馬海流佐渡島を廻るように流れていて、そこに大陸からの寒気が触れるからである。しかし積雪は本土よりは少ない。それでも塚原三昧堂のある場所は、北側に開けていて南側に山があるため、北からの季節風が直接当たっていたと考えられる。粗末な堂宇で、さらに壁が隙間だらけならば、相当の風が入り込んでいたことであろう。

しかし、よく見かけるものとして、堂宇の中で雪をかぶって耐えている日蓮上人の絵などがあるが、それでは、あっという間に凍死する。全くあり得ないことであり、本文を見てもそこまでは記されていない。蓑をかぶっていたのは、雪のためではなく寒さ対策である)。