大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

種種御振舞御書 その11

種種御振舞御書 その11

 

(以下にこの訳者の補足の注を記す。

伝染病が流行すれば、もうこれがこの世の終わりの兆候だ、終末だ、とか言い、大きな災害があれば、これは神の裁きだ、終末の始まりだ、などと言い、その言葉を受け入れて、狂信的になる者たちが起こる。まさに今この時も、そのような事が起っている。これは、いつの時代でも同じであり、危機的に見える出来事に対するこの人間の思考が、日蓮上人自身の歩みを大きく左右し、さらに、上人の伝記的記述をゆがめていることは明らかである。

この前後の段落は、すでに述べたように、後の世の創作者が挿入した文であるが、それでも、前の段落の最後には、「このようなことがあり、しばらくは世間も静まった」という言葉がある。そしてそれに続く段落は、なんと幕府から赦免状が来て、本土に帰る、という内容となる。少し学んだ者ならば、これは異常なことだと思うであろう。一谷(いちのさわ)での記事がない。当然、『観心本尊抄』の記事もない。これほど重要なことが、丸ごと欠落している。私(訳者)は、日蓮上人を崇拝する組織には全く属しておらず、仏教学者でもないので、このことについて、どのようにその世界で言われているかはわからず、また知ろうとも思わないが、ここまで検討を入れながら、佐渡での日蓮上人の歩みをたどって来たのであるから、全く欠落している内容を、私なりに補足して、以下のような文を記す。

放火だというが、事実は不明のままである。一谷の妙照寺は焼け落ちてしまった。2021年のことである。今は無人の寺院跡となっている。それでも、そこに焼けずに立っているのは、平成十四年に建てられた、まだまだ真新しく見える鋳造の「始顕大曼荼羅本尊」である。これはいつまでも見ていられると思った。しかし、間もなく首が痛くなったのでその前から去らねばならなかったが、鋳造されたものでもこれだけの霊的力を発揮しているとは、驚きである。

どうして半年ほどいた塚原から、ここ一谷に移ったのであろうか。定説はない。一谷にはもともと、本間重連の配下にあった一谷入道、一説によると本名を近藤小次郎清久という人物が、その家族と住んでいた。間違いなく、本間重連が一谷入道に頼み込んで、日蓮上人をここに移したのである。

しかし、一谷入道は最後まで念仏者であった。そのようなことは、後に日蓮上人が身延からこの妻に送った『一谷入道御書』に記されている。もし前の段落に記されていたように、重連日蓮上人に手を合わせて、もう念仏は致しません、助けてください、などと言ったとしたならば、なぜわざわざ念仏者のもとに上人を送るのだろうか。あり得ないことである。

そのため、これ以降はあくまでも私の想像であるが、このことに関して記してみたい。

すでに見たように、塚原での生活は、確かに厳しいものであった。『富木入道殿御返事』の冒頭には、「この比は十一月の下旬なれば、相州鎌倉に候いし時の思いには、四節の転変は万国皆同じかるべしと存じ候いしところに、この北国佐渡国に下り著き候いて後、二月は寒風しきりに吹いて、霜雪さらに降らざる時はあれども、日の光をば見ることなし。八寒を現身に感ず」とある。訳せば、「今は十一月の下旬です。鎌倉にいた時には、四季の移り変わりはどこの国でもみな同じだと思っていました。しかし、この北国の佐渡に下り着いた後の二か月間は、寒風がしきりに吹いて、霜や雪がそれ以上降らない時はあっても、日の光を見ることはありません。まるで八寒地獄をこの身に受けているようです」となる。

それでも、次第に弟子たちや仕える者たちが渡って来て、ついには『開目抄』を著わすまでになったのである。ところがこの塚原は、民家が近すぎる。そのため、その人々の想念も読経や執筆には煩わしいものだったに違いない。そのため、何とか厳しい冬を乗り切った後、日蓮上人も新たな地に移ることを願ったことであろう。そして、監督する立場にあった本間重連も、前の段落の記事ほどではないにしても、日蓮上人に対しては、さほど悪い感情は抱いておらず、いつまでも自分の住まいから近い所に置く必要もないと思ったのであろう。上人の願いもあり、自分の配下にある一谷入道のところに移すことにした、と考えられるのである。

一谷は、塚原から西北方向に国中平野を横切った場所にあり、北の山地である大佐渡山地の麓に形成された小さな谷の奥に位置する。金北山を最高峰とするその山地のおかげで、国中平野はある程度、大陸からの季節風から守られているというが、一谷も北側の背後は崖となっていて南側が開けているので、間違いなく、塚原よりは過ごしやすい場所であり、そのため、一谷入道もここに住居を構えていたのだろう。そして、周りに民家がないので静かではあるが、同時に町からそれほど遠くないので、誰でも簡単に往来できる。

日蓮上人がこの地に移ってからのことを知る文献は、あまり多くはないようであるが、『一谷入道御書』に次のようにある。

「宿の入道といい、めといい、つかうものといい、始めはおじおそれしかども、先世のことにやありけん、内々不便と思う心付きぬ。預かりよりあずかる食は少なし、付ける弟子は多くありしに、わずかの飯の二口三口ありしを、あるいはおしきに分け、あるいは手に入れて食いしに、宅の主、内々心あって、外にはおそるるようなれども内には不便げにありしこと、いずれの世にかわすれん。我を生んでおわせし父母よりも、当時は大事とこそ思いしか。いかなる恩をもはげむべし」。

訳すと、「宿の主人である入道も、その妻も、使用人も、最初は恐れていたが、前世からの縁であろうか、次第に不憫に思う心が生じたようである。流人を預かる側からの配給は少ない。日蓮に付き従う弟子も多くなって、わずか二口三口の飯を食器に分け、あるいは手にのせて食べていたが、主人が内々に心を配ってくれて、表向きには恐れているように振舞っても、内心は不憫に思って助けてくれたこと、世が変わっても忘れることはできない。私を生んでくれた父母よりも、当時は大切に思えたほどである。どのようなことをしても、その恩に報いたいのである」となる。

前の段落の最後は、「このようなことがあり、しばらくは世間も静まった」という言葉であったが、これも、この一谷での生活が、ある程度落ち着いたものであったことと無関係ではあるまい。しかし、日蓮上人を崇拝する者としては、佐渡で少しでも平安な日々を過ごされてしまっては、苦難を乗り越えた英雄像に傷がつくので、この一谷のことはごっそりと省略したのであろう。このようなことを考えても、この前後の段落が後の創作であることが、ますます明らかとなるのである。

この一谷の地で、日蓮上人はまず、「大曼荼羅本尊」を書き現わした。このような信心の図式化としては、一説によると、すでに依智に滞在している時から、「楊子本尊」と呼ばれる簡単なものを書いていたようである。また、一谷に移る直前に記されたと思われる『阿仏房御書』には、「あまりにありがたく候えば、宝塔をかきあらわしまいらせ候ぞ。子にあらずんば、ゆずることなかれ。信心強盛の者にあらずんば、見することなかれ。出世の本懐とはこれなり」とある。訳すと、「あまりにもありがたいことなので、宝塔を書き現わして差し上げます。自分の子でなければ、譲ってはなりません。信心がしっかりとした者でなければ、見せてもなりません。『法華経』にある『出世の本懐(注:仏がこの世に出現した目的)』とは、このことです」とある。このようなことから、この大曼荼羅本尊を書き現わすことが、日蓮上人にとっていかに重要なものになったのかがわかる。そして、阿仏房ばかりではなく、しっかりと日蓮上人に従い、教えを受けている者には、何らかの曼荼羅本尊が書き現わされ、与えられていったと考えられる。「佐渡百幅本尊」と言われるゆえんである。

もともと人間は、目に見えるものから受ける影響は大きい。そのため、人は視覚的動物と言われる。犬は嗅覚的動物、コウモリは聴覚的動物である。これも私の想像であるが、特に一谷に来て、ある程度落ち着いた中で思索と祈りを重ねる中、この視覚的な曼荼羅本尊が、ますます詳しく明確になっていったのだろう。そして、そこに真理からくる霊的力を明確に感じ取るようになったのである。日蓮上人はそれをついに、『観心本尊抄』に具体的に記した。

しかしその記述は、確かに曼荼羅本尊について具体的に記されているが、その詳しい教理的なことは記されていない。『観心本尊抄』を読んで、最も違和感を抱く点である。他の箇所は経論の引用も豊かで、力強く自らの教義を宣揚する上人であるが、特にこの曼荼羅本尊の制作に関する理論的根拠などは、全く記されていないのである。

これについても、私は次のように考えるのである。現在は、明治以降、哲学のような学問も西洋諸国から入って来て、自らの考えや思想そのものも、立派な学問の対象となるようになった。ところが、日蓮上人当時はそうではなかった。特に仏法を学び伝える者は、自らの説くところが、すべて経典に基づいたものでなければならない。それこそ明治以降、すべての経典、特に大乗経典は、歴史的釈迦の言葉ではないと明らかにされたが、上人当時は、逆にすべては釈迦の言葉だと信じて疑われなかった。そのため、経典に記されていることに基づいたものだと証明できれば、その説は認められるべきものとなるのである。

ところが、曼荼羅本尊のようなものを書き現わすということは、経典に基づいたものではない。その『法華経』にもそのようなものはない。いやそもそも、日蓮上人が強調する「妙法蓮華経の五文字」でさえも、『法華経』に記されてはいない。それは余りにも当然のことであり、『法華経』は、「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」という題名の大乗経典であり、それを鳩摩羅什(くまらじゅう)が、『妙法蓮華経』という題名として訳し出したまでのことである。原文に「妙法蓮華経の五文字」があるわけがない。

日蓮上人が、この題目の信心を目に見える形として書き現わすことも、そして題目を唱えることが仏の教えの肝要である、ということも、全く経典には記さていない。そのために、かえって日蓮上人が最も伝えようとしていることに関しては、突然、その説明を省いているかのような記述が、五大部をはじめとして、日蓮上人の各書に見られるのである。あるいは、「天台大師は知ってはいたが、時が至っていなかったので、口に説くことはなかった」などという、余りにも身勝手過ぎる説を述べて、それて済ませているのである。

そもそも、教理というものは、もちろん相対的な言葉で表わすものであるため、どのような教えであっても、絶対的な真理をそのまま表わすことはできない。そのため、この世には様々な教えが生まれる。そしてその教えのどれが正しい、間違っている、などと論争することは、正しい教え同士の場合、全く無意味なことである。もちろん、怪しげな霊に取り付かれた者によって始められた宗教や、完全に洗脳を中心とする誤った宗教などは、早々に排除されなければならない。しかし、絶対的真理を追究し、ある程度それを言葉にできている宗教ならば、それはそれでよいのである。

したがって、日蓮上人が他の教えをすべて排除し、『法華経』を受け入れない者はすべて地獄に堕ちる、と言っていることは、イエス・キリストを信じなければ地獄に堕ちると主張してやまないクリスチャン同様、私は全く認めるものではない。

補足は以上である)。