大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

種種御振舞御書 その13

種種御振舞御書 その13

 

(注:この段落の内容は、『報恩抄』にもあり、「文永十一年四月十二日の大風は、東寺第一の智者とされる阿弥陀堂加賀法印が雨ごいした結果の逆風です。善無畏・金剛智・不空の悪法を、少しも違えることなく伝えたためでしょうか。気の毒なことです。気の毒なことです」とある)。

さて、帰って聞いたところによると、同年四月十日より阿弥陀堂法印(加賀法印定清。真言宗の僧侶)が幕府に命じられて、雨ごいの祈祷をした。この法印は東寺第一の智者であり、御室(おむろ・仁和寺のこと)などの諸師、さらに、弘法大師、慈覚大師、智証大師の真言の秘法を鏡にかけたように身に付け、天台宗華厳宗の諸宗の教えを、みな胸に浮かべるように学んだ人である。

こうして十日より雨ごいが行なわれ、翌十一日に大雨が降って風は吹かず、

雨は静かであって一日一夜降ったので、執権相模守殿は非常に感じ入って、金三十両と馬などの賜わり物があったと聞いた。

このため、鎌倉中の上下万民が手をたたき、口をすくめて笑って言うには、

日蓮が誤った法門を説いて、たちまち首を切られそうになったので、もう説くのをやめるかと思ったが、そうではなく、まだ念仏や禅宗を謗るのみならず、真言宗密教などをも謗るので、このような法のしるしはめでたいことだ」と罵ったところ、日蓮の弟子たちも興ざめしてしまい、これはやはりよくないことだったと言うので、日蓮は次のように言った。

「しばし待ちなさい。弘法大師の悪義が真実であって、国のための祈りとなったならば、隠岐法皇こそ、戦いに勝ったであろう。仁和寺の道助法親王の最愛の稚児(ちご)の勢多迦(せいたか)も、首を切られなかったであろう。

弘法大師が、『法華経』を『華厳経』より劣ったものだと記した文は、『十住心論』という書にある。また、『法華経』の「如来寿量品」の釈迦仏を凡夫だと記した文は、『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく・『十住心論』を要約した書)にある。また、天台大師を盗人だと記した文は『弁顕密二教論(べんけんみつにきょうろん・顕教密教とを比較して、密教が勝れていると説いた書)』にある。そして、一乗である『法華経』を説いた仏は、真言師のわらじ番にも及ばないと記した文は、正覚房覚鑁(かくばん・平安時代末期の新義真言宗の開祖)の『舎利供養式(しゃりくようしき)』にある。このような誤ったことを言う者の弟子である阿弥陀堂の法印が、日蓮に勝つというならば、雨をつかさどる龍王は、『法華経』の敵であり、梵天帝釈天や四天王に責められるであろう。これには何らかの訳があるのだろう」と言えば、弟子たちは、「どのような訳があるのでしょう」と笑うので、日蓮はまた次のように言った。

「善無畏も不空も、雨ごいの祈りに雨は降ったが、同時に大風が吹いたと見える。弘法大師は、三七日(二十一日)が過ぎでから雨を降らせた。これらは雨を降らせなかったようなものである。三七の二十一日間に降らない雨などあるだろうか。たとい降ったとしても、何の不思議があるだろうか。天台大師や千観法師(せんかんほっし・平安中期の僧侶)などのように、一座で降らせてこそ尊いのだ。これは必ず訳があろう」と言い終わらないうちに大風が吹いてきた。

大小の家、堂塔、古木、御所などが、天に吹き飛ばされたり、あるいは地にたたきつけられたり、空には大きな光る物が飛び、地には建物の棟や梁が乱れ散り、人々も吹き殺し、牛や馬も多く倒れた。これは暴風雨であるが、秋ならばまだわかるが、時期は夏の四月である。その上、日本全国には吹かず、ただ関東の八箇国だけである。その八箇国のうちでも、武蔵と相模の両国だけであり、さらに両国の中でも相州に強く吹いた。また相州の中でも鎌倉、鎌倉の中でも御所、若宮、建長寺極楽寺などに強く吹いた。これはただ事とは見えず、ひとえに、この祈りのせいだと思われて、日蓮を笑って口をすぼめた人々も興ざめした上、弟子たちも、本当に不思議なことだと言い合った。

(注:ここまでが、後の世に挿入された創作と思われ、これ以降、最後までは、再び日蓮上人の記した文と思われる箇所となる)。