大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

『法華経』現代語訳と解説 その25

法華経』現代語訳と解説 その25

 

その時に釈迦牟尼仏は、分身の諸仏がみな集まり、それぞれの獅子座に着いたことをご覧になり、そして諸仏が同じく、宝塔を開くことを願っていることを聞かれ、すぐに座より立って、空中に上りそこに留まられた。すべての人々は起立して合掌し、一心に仏を見上げた。

そこで釈迦牟尼仏は、右の指をもって七宝塔の戸を開かれた。そのとき、まるで大きな城の門の閂(かんぬき)を抜いて開く時のような、非常に大きな音がした。すぐにすべての会衆は、多宝如来が宝塔の中の獅子座に着き、滅度したにもかかわらず、全身が崩れることなく、禅定に入っているかのような姿を見た。さらにまた「良いことだ、良いことだ。釈迦牟尼仏よ。快くこの『法華経』を説かれた。私はこの経を聞くために、ここに来たのだ」という声を聞いた(注1)。

その時にすべての人々は、過去の無量千万億劫に滅度された仏が、このような言葉を語るのを見て、未曾有のことと讃嘆し、天の宝の華をもって、多宝仏と釈迦牟尼仏の上に散じた。

その時、多宝仏は宝塔の中において、座の半分を分ち、釈迦牟尼仏に与えて、「釈迦牟尼仏よ。この座に着かれよ」と告げられた。すると即時に釈迦牟尼仏はその塔中に入り、その半分の座に着いて、結跏趺坐された。

その時、大衆は、二人の如来が七宝の塔中の獅子座にあって、結跏趺坐されている姿を見て、次のように思った。

「仏はあまりにも高く遠くにおられる。願わくは如来の神通力をもって、私たちも共に空中に引き上げていただきたい」。

すると即時に釈迦牟尼仏は、その神通力を用いて、多くの大衆をみな空中に引き上げられた。そして、大きな声で次のように語られた。「誰がこの娑婆国土において、広く『妙法蓮華経』を説くだろうか。今はまさにその時である。如来は後わずかでまさに涅槃に入るであろう。そのため仏は、この『妙法蓮華経』をゆだねる者を求めているのだ」。

その時に世尊は、重ねてこの内容を述べようと、偈をもって次のように語られた。

「聖なる主である世尊は 遠い過去に滅度されても 宝塔の中におられ この教えのために来られた 人々は教えのために努めないことがあろうか この仏が滅度され 数えることができないほどの歳月が過ぎた 教えは常に目の前にあるのではなく 定まった場所でのみ聞くことができる それほど教えには会うことが難しい 彼の仏の本願は 私の滅度の後も 定まった場所に赴いて 常に教えを聞くことである(注2) 

また私の分身の 大河の砂の数ほどの諸仏が来られたのは やはり教えを聞き そして滅度された多宝如来を見るためである その国土の菩薩たちや弟子たちや天や魔から供養されることを捨て 教えを長く伝えるためにここに来られたのだ 私は諸仏を座に着かせるために 神通力をもって 無量の衆生を移して国を清めた 諸仏はそれぞれ宝樹の下に来られたが それは清らかな池に荘厳な蓮華が咲いたようだ その宝樹の下の 多くの獅子座には仏が座られ 光明によって厳かに飾られること まるで夜の闇の中に 大いなる灯火を燃やしているようである その身より妙なる香を出して あらゆる国を満たしている 衆生はその薫りを受けて 抑えきれないほどの喜びを抱くことは まるで大風に揺らぐ小さな樹の枝のようだ このような方便をもって 教えを長く留まるようにするのだ 

大衆に告げる 私の滅度の後に 誰がこの経を護持し読誦するのだろうか 今仏の前において 自ら誓って語るがよい 多宝仏は 遠い昔に滅度されたが 大いなる誓願をもって ここに師子が吼えるように言葉を発せられる。多宝如来 および私と集まった分身の化仏によって まさにこの意味を知るべきである 多くの仏の子らよ 誰がこの教えを護るだろうか まさに大願を発して この教えが長く伝えられるようにすべきである 経の教えを護る者は すなわち私と多宝仏を供養するのである この多宝仏は 宝塔の中におられ 常にあらゆる方角に行き来される それはこの経のためである 

またこの経の教えを護る者は 集まって来た私の化仏のそれぞれの世界を荘厳にし 光輝く者たちを供養するのである もしこの経を説くならば すなわち私と多宝如来 および多くの化仏を見るようになる 

多くの良き男子たちよ それぞれ明らかに思惟せよ これは難しいことである 大いなる願を発すべきである 他の多くの経典の数は 大河の砂の数ほど多い しかしこれらをすべて説くことは 難しいこととは言えない もし須弥山を取って 他方の無数の仏国土に投げ飛ばすことも 難しいこととは言えない もし足の指をもって 大千界を動かし 遠く他国に投げ飛ばすことも 難しいこととは言えない もし有頂天に立って 人々のために 他の無量の経典を講義するとしても 難しいこととは言えない もし仏の滅度の後に 悪世の中において この経を説くならば これを本当の難しいことと言うのだ もしある人が 虚空を手でつかんで 空を飛び回ったとしても 難しいこととは言えない 私の滅度の後において この経を自ら書写して持ち あるいは人に書かせること これを本当の難しいことと言うのだ もし大地を足の甲の上に置いて 梵天に昇ったとしても 難しいこととは言えない 仏の滅度の後に 悪世の中において 少しでもこの経を読むならば これを本当の難しいことと言うのだ とてつもない大火があって 乾いた草を背中に担いで その中に入って焼けなかったとしても 難しいこととは言えない 私の滅度の後に この経をもって 一人のために説いたとしたら これを本当の難しいことと言うのだ もし八万四千の教えや 十二部経をもって 人のために講義し その聞く者にあらゆる神通力を得させたとしても 難しいこととは言えない 私の滅度の後において この経を聴受して その意味を質問すること これを本当の難しいことと言うのだ もし人が教えを説いて 千万億の大河の砂の数ほどの衆生に 阿羅漢の悟りを得させ あらゆる神通力を得させるという成果をあげたとしても 難しいことは言えない 私の滅度の後において この経典を敬って保つこと これを本当の難しいことと言うのだ 

私は仏の道を得て 無量の国土において 最初から今に至るまで 広くあらゆる経を説いた しかしその中において この経が第一である もしよく保つ者があれば すなわち仏の身を持つことになるのだ 

多くの良き男子たちよ 私の滅度の後において 誰がこの経を受持し読誦するだろうか 今仏の前において 自ら誓って言葉を述べよ この経は保つことが難しい もし少しでも保つ者がいれば私は大いに喜ぶのだ 諸仏も同様である このような人は諸仏に褒められるのだ このような人を勇猛と言うのだ これが本当の精進である これこそ戒を保ち 執着を捨てる修行をする者と名づけるのだ すぐにこの上ない仏の道を得るであろう 来世において この経を読み保つ者は これこそ真実の仏の子 清らかな良い地に住むことになるのだ 仏の滅度の後に この経の意味を解説するならば これこそ多くの天や人の世間の眼である 恐ろしいことの多い世において 少しでもこの経を説くならば すべての天や人は その人を供養すべきである」

 

注1・諸仏が集まったため、釈迦仏は空中に上った。多宝如来のいる塔は空中に留まっているからである。そして釈迦仏によって塔の扉が開かれ、多宝如来の姿を見ることができた。サンスクリットからの訳によれば、その多宝如来の姿は、痩せていて、身体は衰えていたとある。確かに滅度した仏であるので、生きている時と同じような生き生きとした姿では不自然であろう。そしてそうであっても、全身はバラバラになることはなく、禅定の姿で座っていたのである。もしかしたら、ミイラのような姿であったとも想像できる。しかし、このところを漢訳においては、「全身不散」という一言で表現しているだけで、衰えていたということは記されていない。このように、漢訳の訳からは、滅度してはいても、身体は以前のまま、ということしか伝わらないため、現代になって、サンスクリット本が閲覧できるようになるまでは、多宝如来も光り輝く他の仏と同じく、荘厳な姿として認識されていたのである。

注2・多宝如来は、遠い昔に滅度した仏である。滅度とは、仏が絶対的次元、つまり阿耨多羅三藐三菩提に完全に入ることであり、その仏の存在はなくなる。それでこそ究極の悟りであるとされるのである。ではなぜ、完全にいなくなったはずの多宝如来はここに来ることができたのだろうか。いくら誓願があった、と言っても、絶対的真理に逆らっては何もできないはずである。

それを解く鍵が、「塔」ということである。大乗仏教は、釈迦の遺骨を納めた塔廟を管理していた在家の人々が中心になって起こった宗教運動であった。つまり釈迦は死んでいなくなっても、その塔の中に今でも変わらずおられるのだ、という信仰がそこにある。それが多宝如来においても当てはめられているのである。繰り返し「多宝仏の全身」という表現があることも、火葬されたがバラバラになったわけではない、という意味がこめられている。またさらに、その多宝如来の入っている塔廟の中に、釈迦仏までが入って、これからその塔廟の中から説法するのであるから、この『法華経』には、他の大乗経典以上に塔廟に対する信仰が如実に表されていると言える。また『法華経』においては、釈迦仏は再びこの多宝塔の中から出て来ることはないので、そのまま滅度ということになる。そのために本文でも、自分の滅度の後にこの『法華経』をゆだねられる者は誰か、と問われているのである。このようなことも、『法華経』は究極的な大乗経典だと言われる理由であろう。

なお、では本当の最後に説かれたとされている『涅槃経』も、この塔の中から説かれたのか、ということになるが、大乗仏典は、それぞれのグループが創作したものであるので、『法華経』を創作したグループが、『涅槃経』のことなど考えるわけがない。さらに『涅槃経』の中の文に、この『法華経』のことが触れられている箇所があるので、『法華経』成立時には、『涅槃経』は間違いなく、まだ存在していなかったのであろう。それでも、すべては釈迦一代の教えとする明治以前の仏教界においてならば、このことは問題とされるはずであるが、もちろん、そこまで考えた解釈家はいないようである。