大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

報恩抄 その8

このような真言禅宗・念仏などがようやく盛んになって来たころ、人王第八十二代尊成隠岐の法王(後鳥羽上皇)は、権大夫殿(北条義時)を滅ぼそうと年々努力されていましたが、国主であるので、師子の王が兎を襲うように、鷹が雉を取るように思われていた上、比叡山・東寺・園城寺・奈良七大寺・天照大神八幡大菩薩・山王・加茂・春日大社などに数年間、調伏や祈祷をされていましたが、戦は二日三日さえもたず、佐渡国阿波国・隱岐国などに流罪になって、そこで亡くなってしまいました。調伏の最上位者であった道助入道親王は、東寺から追放されたばかりではなく、眼に入れても痛くないほどの第一子の天童勢多伽(てんどうせいたか)は、その首が切られました。これは、調伏したことが、『法華経』の「観世音菩薩普門品」に「還着於本人」とある通りになったと見えます。これはまだ些細なことです。このままですと、この後、日本には人が誰もいなくなり、乾いた草を積んで火を放つように、大山が崩れて谷を埋めるように、他の国が私たちの国を攻めることが必ずあるでしょう。このことを日本の中で知っているのは、ただ日蓮一人ばかりです。このようなことを言うと、殷の紂王が比干の胸を裂いたように、夏の桀王が竜蓬の首を切ったように、檀弥羅王が師子尊者の首をはねたように、竺道生が流罪となったように、法道三蔵が焼き印を押されたようになるであろうことは、前から知っていましたが、『法華経』には「私の身命を愛せず、ただ無上道を惜しむ」とあり、『涅槃経』では、仏は「むしろ身命を失うとも、教えを隠さないように」と諫められました。この一生で命を惜しんでしまえば、いつの世で仏になれるでしょうか。また、どの世で父母師匠を救って差し上げることができようかと、確かな決心で言い始めましたら、やはり予想通り、居場所を追われ、打たれ、傷を受けましたが、さらに、弘長元年辛酉五月十二日に勘気をこうむり、伊豆国伊東に流されました。また、同じ弘長三年癸亥二月二十二日に流罪は解かれました。その後、菩提心(ぼだいしん・悟りを求める心)を強く持って言い続けると、いよいよ大難が重なり、それは、大風にさらに大波が起こるようでした。昔の常不軽菩薩の杖木の責めも、この身に体験しました。覚徳比丘が体験した歓喜仏の末法の大難も及ばないのではないかと思いました。日本六十六ヶ国、島二つの中に、一日片時も安心して住めるところはありませんでした。以前は羅睺羅のように、二百五十戒を保ってよく忍辱する持戒の聖人も、富楼那のような智者も、日蓮に会えば悪口を吐きます。魏微(ぎちょう・唐の忠臣)や忠仁公(ちゅうじんこう・藤原良房)のような正直な賢者たちも、日蓮を見ると理を曲げて偽りを行ないます。ましてや、世間に常にいるような人々は犬が猿を見た時のように、猟師が鹿を追うようです。日本の中に一人として、それが正しいのではないか、と言ってくれる人はいません。しかしそれは当然です。人々が念仏を唱えているところに向かって、念仏は無間地獄に堕ちると言うのですから。人々が真言を尊んでいるところに向かって、真言は国を滅ぼすと言うのですから。国主が禅宗を尊んでいるところに向かって、日蓮は、禅は天魔のわざだと言うのですから。自ら招いたことであるので、人が罵ることも咎めません。咎めないと言っても、相手は一人ではありません。打たれても痛くはありません。もともと覚悟していたことですから。このように、身も惜しまず責め続けましたら、禅僧数百人、念仏者数千人、真言師百千人もの多くの人々が、奉行や権力者や権力者の夫人に取り入ったり、さらに後家尼御前などに取り入ったりして、限りなく讒言をした結果、最後には、「これは天下第一の大ごとである。日本を滅ぼそうと呪詛する法師である。故最明寺殿(北条時頼)や極楽寺殿(北条重時)が無間地獄に堕ちたと言う法師である。調べるまでもない。即刻首をはねよ。弟子たちも首を切り、遠国に流し、牢に入れよ」と尼御前たちが怒ったので、そのように行なわれました。文永八年辛未九月十二日の夜、相模国の龍ノ口で切られるところ、なぜかわかりませんが、その夜は延期されて依智(現在の厚木市)という所に連れて行かれました。そして、翌十三日の夜は、許されたと言う者たちもいましたが、またどうしたことでしょうか、佐渡の国まで行くことになりました。今日切る明日切ると言われながら、約四年が過ぎ、結局は文永十一年太歳甲戌二月の十四日に許され、同じ三月二十六日に鎌倉へ入り、同じ四月八日、平左衛門尉(平頼綱)に対面して、さまざまなことを申し上げた中で、今年、蒙古は必ず攻めて来る、と言いました。同じ五月十二日に鎌倉を出て、この身延山に入りました。これはひたすら、父母の恩・師匠の恩・三宝の恩・国の恩に報いようとして、身も命も捨てたわけですが、それでも生きているからです。また賢人の習いとして、三度国を諫めても聞き入れられなければ山林に交われ、ということも決まっているからです。この功徳は、必ず上は三宝より下は梵天・帝釈・日月天までも知られていることでしょう。父母も故導善房(道善法師のこと。日蓮上人は、音が同じならば別の漢字を使用することもある)の聖霊も助けられるでしょう。

ただし、疑う心もあります。目連尊者は助けようとしましたが、母の青提女(しょうだいにょ)は餓鬼道に堕ちてしまいました。大覚世尊の御子であっても、善星比丘は阿鼻地獄へ堕ちてしまいました。これは力の限り救おうとしても、自業自得の結果は救うことはできないということです。故導善房は、大切な弟子であったために、日蓮を憎いとは思われないはずですが、とても臆病なお方であり、清澄寺を離れたくないと執着した人でした。そして地頭である東条景信を恐れていましたし、提婆達多とその弟子の瞿伽利のような円智と実城が上と下にいて脅すことを特に恐れて、大切にすべき将来のある弟子たちさえ見捨てた人ですから、後生はどうなるのかという疑いもあります。ただ一つ幸いなことには、東条景信と円智・実城は先に亡くなっていることは一つの助けとは思いますが、彼らは『法華経』に記されている十羅刹の責めを受けて早くなくなったのです。彼らが亡くなった後、少し『法華経』を信じられたのかも知れませんが、諍いが終わった後に棒を用意するようなもので、昼の灯のように意味がないのです。その上、どのような場合でも、子とか弟子はかわいいものです。道善房は力がない人でもないはずですが、佐渡流罪になった後も、日蓮に会いに佐渡まで来られたこともなく、これでは『法華経』を信じたことにはなりません。それにつけて、道善房が亡くなったと聞いて驚き、火にも入り、水にも潜り、走って行って、お墓をたたいて、その前で『法華経』を読誦したいと思いました。しかし、私自身は、賢人の習いで遁世しているとは思っていないのですが、人々は、私は身延山に遁世していると思っているので、もし私が清澄山に向かったとあれば、日蓮という人は態度が一貫していないと思われるでしょう。そのため、どうしても行くことができません。ただし、浄顕房と義城房のお二人は、日蓮が幼少の時の師匠でいらっしゃいます。勤操僧正と行表僧正は伝教大師の師匠でしたが、かえってその弟子となられたようです。日蓮が東条景信に憎まれて清澄山を出る時に、お二人がかくまってくださったために出られたことは、天下第一の『法華経』の奉公です。お二人の後生は疑う必要はありません。

問う人が言います。『法華経』一部八巻二十八品の中で、どこが最も肝心でしょうか。

答えます。『華厳経』の肝心は『大方広仏華厳経』であり、『阿含経』の肝心は『仏説中阿含経』であり、『大集経』の肝心は『大方等大集経』であり、『般若経』の肝心は『摩訶般若波羅蜜経』であり、『双観経』の肝心は『仏説無量寿経』であり、『観経』の肝心は『仏説観無量寿経』、『阿弥陀経』の肝心は『仏説阿弥陀経』であり、『涅槃経』の肝心は『大般涅槃経』です。このように、すべての経典は、「如是我聞」の前に記されている経典の題目がその経典の肝心です(注:日蓮上人に対する数多くの誤解の一つが、前にも述べたが、日蓮上人は阿弥陀仏の信心を排除していた、というものである。しかしこのように、浄土三部経の経典名を他の経典と全く同じように並べて記していることからも、それは大いに誤りであることが明らかとなっている。あくまでも日蓮上人が敵対したのは、法然上人の「選択(せんじゃく)の思想」である)。大乗は大乗なりに、小乗は小乗なりに、その経典の題目をもって肝心とするのです。『大日経』・『金剛頂経』・『蘇悉地経』などもまた同様です。仏についてもまた同様です。大日如来・日月灯明仏・燃灯仏・大通智勝仏・雲雷音王仏なども、その名称の内にその仏のあらゆる徳を備えているのです。この『法華経』もまた同様です。「如是我聞」の上に記されている『妙法蓮華経』の五字は、そのまま一部八巻の肝心であり、またすべての経典の肝心であり、すべての諸仏・菩薩・二乗・天人・修羅・竜神などの頂上の正法です。

問う人が言います。何も知らないで「南無妙法蓮華経」と唱えることと、何も知らないで「南無大方広仏華厳経」と唱えることとは同じでしょうか。その功徳に浅深の差別はありますか。

答えます。浅深の差別はあります。

疑って言います。その意味は何でしょうか。

答えます。小さな川は露としずくと井戸の水と溝と支流の水は収めることができますが、大河は収めることができません。一方、大河は露から小さな川を収めることはできますが、大海は収めることができません。『阿含経』は井戸や支流や露やしずくを収める小さな川のようです。「方等経」・『阿弥陀経』・『大日経』・『華厳経』などは小さな川を収める大河です。『法華経』は露やしずくや井戸の水や支流や小さな川や大河や天からの雨などのすべての水を、一滴も漏らさない大海です。たとえば、体が熱い人が、大きな寒水の岸に寝ていれば涼しく、小さな水の岸に寝ていれば苦しいようなものです。五逆罪や謗法の大いなる一闡提の人は、『阿含経』・『華厳経』・『観無量寿経』・『大日経』などの小さな水の岸にいても、大罪の大熱を鎮めることはできません。『法華経』の大雪山の上に横になれば、五逆罪・誹謗・一闡提などの大熱はたちまち鎮まります。したがって、愚者は必ず『法華経』を信じるべきです。それぞれの経典の題目は、みな唱えやすいということは同じですが、愚者と智者との唱える功徳の違いには、天地雲泥の差があります。たとえば、大綱は大きな力をもってしても切れません。しかし、小さな力であっても、小刀を用いれば、たやすく切れます。またたとえば、堅い石は、切れ味の悪い刀を用いては、大きな力があっても砕くことはできません。しかし、切れ味のいい剣を用いれば、小さな力であっても砕くことはできます。またたとえば、薬についての知識はなくても、服用すれば病は癒されます。普通の食事をしても病は癒されません。またたとえば、仙薬は命を延ばし、凡薬は病を癒しても命は延ばしません。

疑って言います。二十八品の中のどれが肝心なのでしょうか。

答えて言います。ある人は、すべての品々がみなその場合その場合に従って肝心であると言います。ある人は、「方便品」と「如来寿量品」が肝心だと言います。またある人は、「方便品」が肝心だと言います。またある人は、「如来寿量品」が肝心だと言います。またある人は、「開・示・悟・入」の経文が肝心だと言います。またある人は、「実相」が肝心だと言います。

問う人が言います。ではあなたは何が肝心だと思いますか。

答えます。「南無妙法蓮華経」が肝心です。

その証拠は何ですか。

答えます。阿難や文殊菩薩などが「如是我聞」などと言っています。

問う人が言います。どういう意味ですか。

答えます。阿難と文殊菩薩とは、八年の間、この『法華経』の無量の義を一句一偈一字も残さず聴聞していましたが、仏の滅後に結集(けつじゅう・経典編纂会議のようなもの)があった時、九百九十九人の阿羅漢が筆を執っていましたが、まず『妙法蓮華経』と書かせて、次に「如是我聞」と唱えられたことは、『妙法蓮華経』の五字は一部八巻二十八品の肝心であるということではないでしょうか(注:実際の結集は、筆によらず、弟子たちの記憶を調えるということであった。そしてここで述べられていることは実際にはなかったが、たとえあったとしても、『法華経』に限ったことでないことは明らかである)。したがって、過去の灯明仏の時より『法華経』を講じた光宅寺の法雲法師は、「如是とはまさに聞いたところを伝えようとする言葉であり、その前の題目に『法華経』のすべてをあげているのである」と述べています。前世で、霊鷲山において仏を目の当たりにした天台大師は、「如是とは聞いたところの教えの本体である」と述べています。章安大師は、記者の解釈として、「ただし序王とは経の玄妙な意義を述べ、玄妙な意義は文の心を述べる」と記しています。この解釈の文の心とは、題目は『法華経』の心であるということです。妙楽大師は、「一代の教法を収めることは、『法華経』の文の心より出る」と述べています。インドは、七十ヶ国よりなりますが、総名は月氏国です。日本は六十ヶ国、総名は日本国です。月氏国の名の内に七十ヶ国の人畜珍宝のすべてが含まれています。日本という名の内に六十六ヶ国があります。出羽の羽も奥州の金も国の珍宝も人畜をはじめ寺塔も神社も、みな日本という二字の名の内に収まります。天眼をもっては、日本という二字を見て六十六ヶ国の人畜などが見えるはずです。法眼をもっては、人畜などがそこで死んでまた他のところに生じることをも見えるはずです。たとえば、人の声を聞いて体を知り、足跡を見てその体の大小を知ります。蓮を見て池の大小を計り、雨を見て竜の分斉を考えます。これはみな一つのことにすべてがあるという理(ことわり)です。『阿含経』の題目には大まかな要旨のすべてがあるようですが、ただし小乗の釈迦一仏だけがあって、他の仏はありません。『華厳経』・『観無量寿経』・『大日経』などにはまたすべてがあるようですが、二乗が成仏する教え(迹門)と、久遠実成の釈迦仏(本門)はありません。たとえば、花咲いて実成らず、雷鳴って雨降らず、太鼓あって音なし、眼あって物を見ず、女人あって子を産まず、人あって命なし、また神なしというものです。大日の真言・薬師の真言阿弥陀真言・観音の真言などもまた同様です。それらの各経典においては、それらの真言は大王・須弥山・日月・良薬・如意珠・利剣などのようですが、『法華経』の題目に比べれば、雲泥の勝劣のみならず、みなそれぞれ当体の自らの働きを失います。たとえば、多くの星の光は、一つの太陽の光に奪われ、あらゆる鉄は、一つの磁石によって役に立たなくなり、大きな剣であっても、小さな火によって働きを失い、牛乳・驢乳などは、師子王の乳に比べれば水のようなものとなり、多くの狐の術も、一匹の犬に会えば失われ、狗犬が小さな虎に会って色を失うようなものです。「南無妙法蓮華経」と唱えれば、「南無阿弥陀仏」の働きも、「南無大日真言」の働きも、観世音菩薩の働きも、すべての諸仏諸経典諸菩薩の働きも、みなことごとく『妙法蓮華経』の働きに失われます。この各経典は『妙法蓮華経』の働きを借りなければ、みな意味のないものになってしまいます。これは極当然のことです。

(つづく)