大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

『観心本尊抄』 3

観心本尊抄』解説および現代語訳 3

 

問う:出典はわかったが、修行である観心についてはどうか。

答える:観心とは、自分の心を観察して十法界を見ることである。これを観心という。たとえば、他人の目耳鼻舌身意の六根(ろっこん)を見るとしても、まだ自分自身の六根を見なければ、自分がどのような六根を持っているかわからない。しかし鏡に向う時始めて自分の六根を見ることができるようなものである。たとえ、あらゆる経典の中のあちこちに、迷いの世界である六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)と悟った世界である四聖(声聞・縁覚・菩薩・仏)が記されているとしても、『法華経』ならびに天台大師が講述した『摩訶止観』などの鏡を見なければ、自分自身がどのような十界・百界千如・一念三千を備えているのかがわからないのである。

問う:『法華経』における観心について文はどれか。またその天台大師の解釈はどのようなものか。

答える:『法華経』の「方便品」に「衆生に仏の知見を開かせようとする」とある。これは仏界以外の世界にも仏界が備わっていることを表わしている。また「寿量品」に「このように私が仏となってから非常に長い歳月がたっている。その寿命は数えきれないほどの長さであり、常に存在して滅びることがない。よき男子たちよ。私が仏になる前の菩薩の道を行じて成就した寿命は未だ尽きていない。先に数えきれないほどの歳月と言ったが更にその数の倍以上ある」とある。この経文は仏界に仏界以外の世界が備わっていることを表わしている。また「提婆逹多(だいばだった)は天王如来となる」とあるが、提婆逹多は地獄に堕ちるはずの人間の代表的人物であるので、これは地獄界に備わっている仏界を表わしている。また経に「羅刹女の一人は藍婆(らんば)であり、彼らのように法華の名を護持する者の福徳は測ることができないほど大きい」とある。これは餓鬼界に十界が備わっていることを表わしている。また「竜女は最高の悟りを得る」とある。これは畜生界に十界が備わっていることを表わしている。また、「婆稚阿修羅王法華経の一偈一句を聞いて最高の悟りを得るであろう」とある。これは修羅界に十界が備わっていることを表わしている。また「人は仏のためにみな仏の道を成就する」とある。これは人界に十界が備わっていることを表わしている。また「大梵天王や私たちもこのように必ず仏になるだろう」とある。これは、天界に十界が備わっていることを表わしている。また「舎利弗は華光如来となるであろう」とある。これは声聞界に十界が備わっていることを表わしている。また「この縁覚を求める者や比丘や比丘尼たちは、合掌し敬う心をもって悟りを開く道を聞こうと願っている」とある。これは縁覚界に「十界」が備わっていることを表わしている。また「地涌の菩薩たちは真の清らかな大いなる教えを広めようと願う」とある。これは菩薩界に十界が備わっていることを表わしている。また「あるいは私自身の身をもって説き、また他の身となって説く」とある。これは仏界に十界が備わっていることを表わしている。

問う:自分や他人の六根は見ることができるが、これらの十界は互いに見ることはできない。どうしてこのことを信じることができようか。

答える:『法華経』の「法師品」に「信じがたく理解しがたい」とある。また「見宝塔品」に「六難九易」とある。天台大師は「迹門と本門で説かれている教えは、法華経以前の教えとは大きく異なっているので信じがたく理解しがたい」と述べている。章安灌頂は「仏はこの教えを大いなることだとした。どうしてこれが理解しやすいことがあろうか」と述べている。伝教大師最澄は「この法華経は最も信じがたく理解しがたい。仏が聴衆の能力の程度を考慮に入れずに説いた教えであるからである」と述べている。そもそも、仏がいた当時の弟子たちは、過去世からの因縁が濃厚であったため、教主である釈迦仏と、多宝仏と十方にいる釈迦仏の分身の諸仏と地涌の菩薩たち、文殊菩薩弥勒菩薩たちが助けて教えを明らかにしようとしたが、それでも信じない者たちがいて、教えが始まる前に五千人が席を去り、人や天も移された。まして仏が世にいなくなった正法(しょうぼう)や像法(ぞうぼう)はどうであろうか。さらに末法(まっぽう)の初めである今はいかばかりであろうか。あなたが信じられないと言うことは、今は正法でないからである。

(注:正法・像法・末法は仏教の終末論である。正法は仏の死後、五百年あるいは千年間の期間とされ、仏の教えが正しく伝えられて修行すれば悟りが得られる時代とする。像法は正法の後の千年間であり、形式的に教えや修行が行なわれるだけで、悟りが得られない時代とする。末法は、教えだけがかろうじて残る期間とされ、一万年の間とする。日本では永承七年(1052年)に末法になったとする)。

問う:経文ならびに天台大師や章安灌頂などの解釈は理解できた。ただし、いくら仏の説いたことだとしても、火を水だと言い、墨は白いと言うようなことは信じられない。今、他の人に十界を見ようとしても、ただ人界に限られたことで、他の世界は見えない。自らのことも同じである。どうやって信心を起こすことができるだろうか。

答える:他の人を見ると、ある時は喜び、ある時は怒り、ある時は平静であり、ある時は貪り、ある時は愚かであり、ある時は人にへつらう。怒りは地獄界、貧りは餓鬼界、愚かさは畜生界、へつらうことは修羅界、喜ぶことは天界、平静であることは人界である。他の人の様子においては六道があり、悟りの次元に入った四聖は、伏せられ表われないけれども、詳しく見れば、これらも備わっているのである。

問う:六道がこのようにはっきり認識できるとはいかないまでも、このように聞けばそれもそうだと思う。しかし、四聖は全く見えないのはどうなのか。

答える:あなたはまず人界に六道が備わっていることを疑ったので、それも仕方ないと思って強いて具体的な例をあげたのだが、四聖についてもそのようにすべきなのだろうか。試みに道理を添えてその一部を述べてみよう。いわゆる世間が無常であるということは目の前の事実である。声聞と縁覚の二乗はこの無常を悟るわけであるから、まさに声聞界と縁覚界は人界にないと言えないのである。さらに、人を人とも思わない悪人も自分の妻子は慈愛するものである。それこそ菩薩界の一分である。ただし、確かに仏界は現実に表われることは難しい。ここまで仏界以外の九界が互いに備え合うことがわかったなら、これも信じて疑ってはならない。『法華経』の文に、人界について「衆生に仏の知見を開かせることを願う」とある。また『涅槃経』に「大乗を学ぶ者は肉眼を持ったままで、その肉眼を仏眼ということができる」とある。この悪しき末法の世に生まれてもなお『法華経』を信じる人は、まさに人界に仏界を備えているからなのである。

問う:「十界互具(じゅっかいごぐ・十界が互いに備え合っているということ。これも天台教学において重要な用語の一つ)」の仏の言葉はよくわかった。しかし、そうは言っても、私たちの劣った心に仏法界が備わっているというようなことは、とても信じることはできないのである。今、このことを信じなければ、成仏できない一闡提(いっせんだい)となってしまうであろう。願はくは大慈悲を起こしてこのことを信じさせ、私が阿鼻地獄の苦しみを受けないよう救ってほしい。

答える:あなたはすでに一大事因縁(いちだいじいんねん・仏が『法華経』を説くということは、これ以上ない大きな因縁によるものだという『法華経』の言葉)の経文を見聞きして、なおかつこれを信じないならば、釈迦仏はもとより、仏と同等の悟りを持つ菩薩にはじまって、見た目は差し置いて真理の面においては仏の道にある末の世の私たちが、どうしてあなたの不信を救護することができるだろうか。しかし、試みに説いてみよう。仏に付き従っても、最後まで悟ることができなかった阿難(あなん・釈迦のいとこにあたり、弟子の中でも釈迦の付き人の働きをしていた)でさえ、釈迦の入滅の後に悟ったわけであるから、あなたにもその可能性もあるだろう。

(つづく)

法華玄義 現代語訳  78

『法華玄義』現代語訳  78

 

もし智慧を表わそうとすれば、必ず観心を成就すべきである。広く観心の智慧を述べるならば、そこに因果がある。すなわち観心は因であり智慧は果である。たとえば、仏性ということに関しても、そこに因果があり、因は仏性であり、果は涅槃である。ここで、因と果に分けて観心を因とし智慧を果としたわけである。『瓔珞経』に「従仮入空観(じゅうけにっくうがん=空観)を二諦観と名付け、従空入仮観(じゅうぐうにっけかん=仮観)を平等観と名付け、この二つの観心を方便として中道第一義諦(=中観)に入ることができる」とある。ここで従仮入空観を因として、成就する果である智慧を一切智とする。そして、従空入仮観を因として、成就する果である智慧を道種智とする。また中観を因として、一切種智の果を成就することができるのである。先に「五種の智慧」について述べたが、観心の成就についても、五種がある。その細かな点については自ら知るべきである。観心の修行については『摩訶止観』に記された通りである。

次に、麁と妙を判別する。蔵教と通教の仏に一切種智の名称があったとしても、中道を説かないのであるから、それ以上の真理がなく、それ以上の煩悩を破ることもないので、この智慧は成就しないことになり、用いることもない。別入通教の智慧は、中道を説くといっても、通教の教えを因として一切智・道種智を成就し、後に中道を照らすとしても、広大な働きはない。程度の低い教えを因とすれば、果もまた融合しないものとなる。このために麁である。次に円入通教の智慧は、教えの果の真理は融合するとしても、因は通教の教えなので麁である。別教の智慧は、通教の教えを因としないとしても、三智はそれぞれ別であり、果の教えは融合しないので麁とする。円入別教の智慧は、果は融合するとしても、因は別教の教えなので、この因もまた麁である。円教の三智は、因も円教であり果も円教であり、因も妙であり果も妙であり、諦も妙であり、智慧も妙である。まさに方便を捨てて、ただ無上の教えを説くのみである。このために「妙智」というのである。

もし五味の教えを用いれば、乳味の教えは別教・円入別教・円教の三つの智慧であり、酪味の教えは三諦を説かないので、一切種智の名称だけであり、生蘇味の教えは、別入通教・円入通教・別教・円入別教・円教の五種の三智であり、熟蘇味の教えも同じく五種の三智を備える。この麁と妙については自ら知ることができるであろう。『法華経』は、ただ醍醐味の教えの三智のみである。これは『法華経』が方便を破ることであるので、相待妙である。

麁を開いて妙を表わすことについて述べれば、仏道がない世智であっても、その邪悪な姿のままで正しい姿となる。この世の治生産業は、みな実在の真実の姿と異なることはない。『法華経』にある通り、仏を象徴するものに対して、少しだけ頭を下げ、少しだけ手を挙げただけでも、麁が開かれ妙が表わされ、仏の道が成就される。ましてや、声聞、縁覚、菩薩のように、この世の次元から出た人たちはなおさらである。このために『涅槃経』に「声聞と縁覚は実であると同時に虚である」とある。煩悩を断じているので実といい、常に変わらない真理と一体とはなっていないので虚とする。一般人は煩悩を断じていないので、実はなく虚だけである。しかしそれでも、大乗の教えによって麁が開かれ妙が表わされる。ましてや、声聞や縁覚の智慧はなおさらである。この二乗の智慧は、感覚器官が死んで意識が枯れてしまうようなことがあっても(注:いわゆる小乗の独善主義を指す)、また生き返ることができる。ましてや、衆生のための道種智を持つ菩薩はなおさらである。このように、麁が開かれ妙が表わされる時は、すべてが妙となり、実在の真実の姿に異なることがなくなる。『法華経』に、七つの宝に飾られた大きな車の数が無量にあるということは、これはこの経典の麁を開いて妙を表わすことの意味であり、絶待妙である。

 

◎一諦との比較

次に、一諦の境と比較して智を述べる。これはすなわち如実智(にょじつち・すべての実在の真実の姿を知る智慧)である。『大智度論』に「あらゆる川の水が海に流れ込めば、みな同じ塩味となる」とある。あらゆる智慧も、この如実智に入れば、そのそれぞれ異なっている智慧の名称を失う。このために、如実智はすべての智慧を摂取し、もっぱら一諦の境を照らすために、すべての水が一つの味となるのである。もしあらゆる智慧を麁とすれば、如実智は妙となる。もし、あらゆる智慧の中で、真理を指し示す智慧である実智に相対させれば、中道を備えない実智は麁であり、中道を備える如実智を妙とする。しかし、麁を開いて妙を表わせば、あらゆる実智を妙とするばかりではなく、その他のあらゆる智慧もまた妙となる。

さらに無諦無説について述べれば、すでに無諦と言えば、また無智である。もしあらゆる場合における無諦について述べれば、方便の無諦無智を麁とし、中道の無諦無智を妙とする。もし『維摩経』にあるように、真理は言葉に表現できないため、ただ黙っているという無諦無智を用いれば、麁もなく妙もなく、相待妙もなく絶待妙もない。すべてにおいてみな麁なく妙もないのである。

『観心本尊抄』 2

観心本尊抄』解説および現代語訳 2

 

疑って問う:『法華玄義』第二巻には「また一法界に九法界を備えれば百法界に千如是となる」とあり、また『法華文句』第一巻には「一入に十法界を備えれば、一法界は十界となる。その十界の各々に十如是があるので、一千となる」とある。また『観音玄義(かんのんげんぎ・天台大師の『法華経』「観世音菩薩普門品」の講述を記録したもの)』に「十法界が互いに交われば百法界となる。千種の本性と形は心に含まれ、目の前に表われないとしても変わらず備わっている」とある。(補足:これは「一念三千」を説いていることではないのか)。

(注:この問いに対する答えは記されていない。その理由は不明である。もちろんここにあげられた書には、「一念三千」という言葉はないが、意義的には「一念三千」と全く同じことが述べられているのである)。

問う:『摩訶止観』の前四巻に「一念三千」の名目が説かれているのか。

答える:妙楽大師は「説かれていない」と言っている。

問う:それについての解釈はどうか。

答える:『止観輔行伝弘決』の第五巻に「『摩訶止観』の第七「正修止観章」までは、全く修行について述べてない。また第六「方便章」の「二十五方便」は具体的な事柄をもって解説している。したがってこれは「正修(しょうしゅう・最も中心的な修行のこと)の方便である。このために、『摩訶止観』第四巻の第六までは前段階の解説に属する」とある。

また「このために、第七「正修止観章」至って、この「三千」の教えをもって指南としているのである。すなわちこれが最も究極的な教えである。したがって、『摩訶止観』の序の中で、講述筆記者である章安灌頂は、「ここに記されている内容が天台大師自身の心の中で行じた教えである」と記している。このようなことであるから、読む者は心に異なった教えを持ち込まないように願うのである。

天台大師が教えを広めたのは三十年間であったが、二十九年の間は『法華玄義』『法華文句』などの諸義を説いて、「五時八教(ごじはっきょう・すべての経典の教えを説かれた時や程度の違いによって分類したもの)」「百界」「千如」などを説き、それまでの中国での経典解釈の誤ったところを責め、またインドの論師がまだ述べていない教えを明らかにした。弟子の章安大師は「インドの大いなる論師も及ばず、ましてや中国の人についてはどうして語る必要があるだろうか。これは高慢から言うのではなく、その教えそのものが明らかにしていることである」と言っている。しかし情けないことに、その天台宗の学者たちは、華厳宗真言宗の盗人のような元祖に「一念三千」の重宝を盗み取られて、かえって彼らがその教えを扱う者となっている。章安大師はこのことを予見していて「この言葉が地に落ちてしまえば、将来に希望はない」と言っている。

問う:「百界千如」(十法界×十法界×十如是)と「一念三千」との違いは何か。

答える:「百界千如」は生きとし生けるものの世界に限り、「一念三千」は生きているものをはじめ森羅万象に及ぶ。

(注:「百界千如」は、すべての実在について、いわゆる客観的に表現した言葉である。一方、「一念三千」は、「百界千如」に、人間の存在を意味する「三世間」を掛けて、それが「一念」という一瞬の心にすべて備わっているとするものである。人間は認識的存在であり、人間の認識がすべてである。つまり、人間の認識が神羅万象そのものである。したがって、「一念三千」は森羅万象に及ぶのである)。

不審に思って問う:「十如是」が森羅万象に渡るなら、草木にも心があって人間のように成仏するのか。

(注:「十如是」とあるが、確かに「十如是」はすべての存在のあり方を分析したものなので、意味は同じであるが、「一念三千」としたほうが、もちろん読者にとっても読みやすい。しかし日蓮上人はこの後の箇所で、「十如是」の因果について述べているので、そこにつなげるために、ここであえて「十如是」という用語を用いていると考えられる)。

答える:このことは信じがたく理解しがたいことである。天台の教えにこの難信難解が二つある。ひとつは教門の難信難解、二つには観門(修行である観心のこと)の難信難解である。まず、教門の難信難解であるが、仏の一代の教えにおいて、『法華経』以前の諸経典には、声聞(しょうもん・歴史的釈迦の弟子のこと。釈迦の声を聞いているのでこの名称がある)と縁覚(えんがく・釈迦の弟子ではないが、一人で修行して釈迦と同じ悟りを開いた者。因縁の真理を悟っていることからこの名称がある)の二乗(にじょう)と一闡提(いっせんだい・古代インド語のイッチャンティカの音写文字。もともと仏になることができない者のこと)は未来永劫に成仏できないことになっている。『法華経』の前半の迹門(しゃくもん)では、他の経典と同じく、釈迦仏がこの世ではじめて悟りを開いた仏として登場しているが、それでも二乗も一闡提も仏になることができると説いており、永遠の釈迦を説く本門(ほんもん)はなおさらである。しかしこれでは、同じ釈迦が異なった教え、まるで水と火のように相容れない教えを説いたことになり、このようなことをいったい誰が信じるだろうか。これが教門の難信難解である。

(注:このようなことは今現在では問題ではない。現在伝わっているほとんどの経典、特に大乗仏教の経典は歴史的釈迦の説いた教えではなく、紀元直後から大乗仏教を興したあらゆるグループが、それぞれの主張を釈迦が説いたように経典に記したまでのことである。そのため、さまざまな教えがあるのは当然である。『法華経』ももちろん歴史的釈迦の説いた教えではない。しかし、『法華経』が説く教えは他の経典とは大きく異なっていることも確かである)。

次に観門の難信難解とは、観心についての「百界千如」「一念三千」の教えのことであり、森羅万象にも認識の対象である「色(しき)」があり、認識の主体である「心(しん)」の二つがあるとし、「十如是」があるとすることである。これが難信難解だとしても、一般的に木像や絵画などを本尊として崇めることは、仏教以外でも仏教でも行なわれており、このことは、天台の教えから出ていると言える。草木の上に「色」と「心」の因果を認めなければ、木画の像を本尊とすることは意味がない。

疑って問う:草木国土の上の「十如是」の因果の教えは、どの文に記されているのか。

答える:『摩訶止観』第五に「国土世間はまた十種の在り方(=十如是)を備えている。いわゆる悪国土には悪なる相・性・体・力があるのだ」とある。また『法華玄義釈籤』第六に「相はただ認識の対象であり、性はただ認識主体の心であり、体・力・作・縁の意義は認識対象と心を兼ね、因・果はただ心、報はただ認識対象である」とある。また同じく湛然の『金錍論(こんぺいろん)』に「一草・一木・一礫・一塵・それぞれに仏性があり、それぞれに因果あがり、縁因仏性(えんいんぶっしょう)と了因仏性(りょういんぶっしょう)を備えている」とある。

(注:正因仏性(しょういんぶっしょう)・縁因仏性・了因仏性の三つを三因仏性という。仏になる可能性である仏性を更に三つに分けたもの。正因仏性はいわゆる仏性そのもの。縁因仏性は正因仏性を発するための条件であり、了因仏性は仏性を発するための智慧のこと)。

(つづく)

法華玄義 現代語訳  77

『法華玄義』現代語訳  77

 

◎三諦との比較

次に三諦の境と比較して、智を述べる。すでに五種(注:二諦の七種から中道のない蔵教と通教を除いた五種。ここでは①~⑤の数字をつけて整理する)の三諦について述べたが、ここでさらに分別する。

そもそも三諦の智慧は十法界を照らす。十法界を三法に分ける。六道を有漏(うろ・煩悩がある状態)とし、声聞と縁覚を無漏(むろ・煩悩が断たれた状態)とし、菩薩と仏を非有漏非無漏(ひうろひむろ・煩悩があるのでもなくないのでもない状態。つまり煩悩があるないの次元を超越していること)とする。この三法が互いに含まれ合って五種となる。

①別入通教においては、非有漏非無漏は無漏に含まれ、有漏・無漏に相対する三法である(注:通教は中道を説かないので、非有漏非無漏を表現できないが、果において別教に入る能力のある人は、もともとその無漏に中道が含まれていると解釈される)。②円入通教は、すべての教えは無漏に含まれ、有漏・無漏に相対する三法である(注:通教の果において円教に入る能力のある人は、もともと無漏にすべての教えが円融されて含まれると解釈される)。③別教は、有漏・無漏・非有漏非無漏の三法を順番に観心する。④円入別教は、すべての教えは非有漏非無漏に赴き、有漏・無漏に相対する三法である(別教の果において円教に入る能力のある人は、有漏・無漏に相対しながらも非有漏非無漏にすべての教えが円融されていると解釈される)。⑤円教は、すべての教えは有漏に赴き、無漏に赴き、非有漏非無漏に赴く三法である。これが三諦の智慧が照らす対象である五境である。

この五境を、一切智(いっさいち・すべての実在の真理について知る智慧)・道種智(どうしゅち・菩薩が衆生を教化するために衆生と教えの差別の姿を知る智慧)・一切種智(いっさいしゅち・すべての実在の真理とその差別の姿とその平等の真理の姿を同時に知る智慧)の三智が照らす。

そして、一切智は空であるので空智(注:蔵教の智慧)とし、道種智は仮であるので道智(注:通教の智慧)とし、中である一切種智においては、空・仮・中が順番に照らされる場合は中智(注:別教の智慧)とし、順番なく照らす場合は如来蔵智(注:円教の智慧)とする。この三智は五境に対してそれぞれ互いに含まれ合うが、その状態は同じではない。

次に詳しく述べる前に、各名称だけをあげると次の通りである。

別入通教においては、中智は空智に含まれ、道智に相対する三智である。円入通教においては、如来蔵智は空智に含まれ、道智に相対する三智である。別教においては、中智は空智と道智に相対する三智である。円入別教においては、如来蔵智は中智に含まれ、空智と道智に相対する三智である。そして円教の三智である。これが五境の違いである。次に詳しく述べる。

○別入通教の中智が空智に含まれ道智に相対する三智

最初に無漏によって一切智を発し、次に有漏によって道種智を発し、後に深く無漏の空を観じて、空もまた空と知って、一切種智を発する。しかし初心の者は、空もまた空であることを知らないので、いくら空を悟り得たとしても、その空も空であることを知らず(注:この段階では通教である)、後に明確に空を深く観じて、得たところの空も空であると悟る(注:このように順番に中智を悟るので、ここで別教に入るとされる)。通教の空も別教の空も名称は同じであり、通教の空智の境である無漏と、別教の中智の境である非有漏非無漏は同じとなるので(注:通教は中道を説かないので)、中智は空智に含まれるとするのである。これを三智によって分別すれば、無漏を照らす空智が一切智であり、有漏を照らす空智が道種智であり、中道の空智を一切種智とする。一般的に各経論の説を総合して、「六地に煩悩を断じるのは阿羅漢と等しく、七地に方便道を修し、八地に空観を行ないながら他の人を教化して無明を破って仏となる」と言っているのはこの意味である。

○円入通教の如来蔵智が空智に含まれ道智に相対する三智

有漏と無漏によって一切智と道種智を発することは、前の①別入通教と変わらないが、次の③別教の境によらずに中智を修するのである。つまり、深く空を観じて、空は不空と知るのである(注:①の場合は、空もまた空と知るとあったが、②では不空と知るのである)。この不空は如来蔵である。如来蔵は、空と同じとなるので互いに含まれるとする。深く空を観じて不空を見ることにより、一切種智を発する。前の①別入通教の中道の智慧は、ただ別教の中道を表わすのみである(注:順番に悟って到達した中道であるから)。その別教の真理と智慧は、あらゆる実在を備えないが、この如来蔵の真理と如来蔵の智慧は、あらゆる実在を備えるために、前とは異なるのである。この如来蔵の智慧を、空智と道智と相対して三智とするのである(注:あくまでも因が通教であるから相対するのである)。『涅槃経』に「声聞の人はただ空を見て不空を見ない。智者は空および不空を見る」とある。また『般若経』に「一切智は声聞の智慧、道種智は菩薩の智慧、一切種智は仏の智慧」とあるのはこの意味である。

○別教の中智は空智と道智に相対する三智

無漏によって一切智を発し、有漏によって道種智を発し、非有漏非無漏によって一切種智を発する。それぞれの順番や浅い深いの違いは、互いに交わらない。このために『地持経』には「十住の位に上った菩薩は、発心して煩悩の障りと智慧の障りを除こうとする。仏がいてもいなくても、必ず順番にあらゆる煩悩を断じる」とあるのは、この意味である。

○円入別教の如来蔵智は中智に含まれ空智と道智に相対する三智

無漏によって一切智を発し、有漏によって道種智を発することは、前の③別教と同じであるが、一切種智が少し異なっている。なぜなら、前の③別教で中道の境を明らかにするのは、ただ中道の真理のみである(注:順番に悟った中道であるから)。この真理を表わそうとするならば、まさにすべての修行を行なわなければならない。真理を表わす智慧のために一切種智と名付けたまでである。しかし、この如来蔵の真理は、すべての智慧を含んでいる。ただ真理を表わす智慧を一切種智と名付けただけではないために(注:この一切種智はすべてを含む如来蔵智であるから)、前の③別教と異なっているのである。この如来蔵の智慧をもって、空智と道智に相対して三智とするのである(注:あくまでも因が別教であるから相対するのである)。このために、地論宗の人が「縁修は真修を表わすものである。真修自体が発する時は縁修を用いない」と言っているのはこの意味である。空智と道智は縁修である。如来蔵智が発する時は、これが縁修に相対して真修となる。真修はすべての智慧を備えているので、他を用いる必要はない。

○円教の三智

有漏は因縁によって生じたものであるので、即空・即仮・即中である。無漏もまた即仮・即中である(注:無漏は即空であるから)。非有漏非無漏もまた即空・即仮である(注:非有漏非無漏は即中であるから)。一法は三法であり、三法は一法であり、一智は三智であり、三智は一智、智慧はそのまま境であり、境はそのまま智慧であり、融通無碍である。このような三智がどうして前と同じであろうか。『大智度論』に「三智は一心の中で得て、前もなく後もない」とある通りである。人に対して説くために、わかりやすくするために三智の名称を出して説くだけである。

毘沙門天王功徳経 現代語訳

仏説毘沙門天王功徳経

 

このように仏から聞いた。

ある時、仏が王舎城(おうしゃじょう)の竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)において、大いなる千二百五十人の比丘たちと共におられた。

その時、弟子の阿難(あなん)は一心に合掌して仏に次のように申し上げた。

「どのような因縁で、毘沙門天王は身に金の鎧をつけ、左手に宝塔をささげ、右手に如意宝珠の棒を取り、左右の足の下に羅刹(らせつ)や毘闍舎(びしゃじゃ)の鬼を踏みつけているのですか」。

仏は阿難に次のように語られた。

「この毘沙門天王は、七万八千億の諸仏を護衛し、仏法を守る兵士である。左手にささげる宝塔は普集功徳微妙(ふしゅうくどくみみょう)という。宝塔の内には八万四千の法蔵、十二部経(じゅうにぶきょう・すべての経典を指す)の文の義を具し、それを見る者は明らかに無量の智慧を得る。

右手の如意宝珠の棒を取るのは、震多摩尼珠宝(しんだまにしゅほう・如意宝珠を古代インド語でチンターマニといい、その音写語)という。この珠より、飲食や衣服をはじめ、無量の財宝が涌き出る。身に金の鎧をつけているのは、四魔(人を惑わす四つの魔。認識作用の魔である五陰魔、煩悩魔、死魔、悪魔)の軍を打ち破るためである。二匹の鬼は、悪い業と煩悩を降伏するために踏みつけているのである。また従者としての鬼が二匹いる。藍婆(らんば)と毘藍婆(びらんば)という。また毘沙門天王の左脇に天女がいて、大吉祥天女(だいきっしょうてんにょ)という。右脇に一人の童子がいて、禅尼子童子(ぜんにしどうじ)という。

毘沙門天王の体を見て、名を聞いて心に念ずる者は、八万億劫の生死の微細の罪を除き、百千億の功徳を得て仏位に至り、今の世では無量の福を増し加える。

さらに仏は阿難に次のように語られた。

毘沙門天王に仕える者は、次の十種の福を得る。

一に無尽の福を得る。二に多くの人々から愛し敬われるという福を得る。三に智慧の福を得る。四に長命の福を得る。五に多くの者を従えるという福を得る。六に戦いに勝つという福を得る。七に田畑がよく実るという福を得る。八に蚕養が盛んになるという福を得る。九に良い教えを受ける福を得る。十に仏の悟りと同じ究極的悟りの福を得る。

毘沙門に仕えることを願う者は、毎月最初の三日に、身を清め新衣を着て、東北の方に向かって、毘沙門天の名号を称え念じれば、必ず大福徳を得ること疑いなし」。

そして仏は次の呪文を唱えられた。

「おんべいしらまなやそわか」

仏がこの呪文を説き終わった時、大地は震動し、毘沙門天王が現われ、大いなる蓮華王の上に座し、そして阿難に次のように語られた。

「私はここより北方七万八千里を過ぎたところにある普光という国の、吠室羅摩那郭大城(べいしらまなかくだいじょう)という城にいる。そこに八十億那由陀(なゆた・数えきれないほどの量を指す)の大いなる福が集まっており、私は毎日三時にその福を焼く。私のその福を得ようと願うなら、五戒(不殺生戒・不偸盗戒・不邪婬戒・不妄語戒・不飲酒戒)を保ち、仏・法・僧の三法に帰して、無上の悟りを求めよ。そうするならば、私は必ず与え、すべての毘沙門天の福を成就することができる。その願いは、次の五種であるべきである。一は父母孝養のために、二は良い結果を招く功徳のため、三は国土豊穣のため、四はすべての人々のため、五は無上の悟りのためである。もしこの五種以外を願っても福は得ることはできない。

人は死は免れないが、貧しさの苦しみは受けるべきではない。人々の苦しみの原因はただ貧しさの苦しみだけである。

福徳を得ようとするなら、北東に向かって名号を一百八遍称えれば、大福徳を得るであろう。智慧を得ようとするなら、東方に向って名号を一百八遍称えれば、大智慧を得るであろう。官位を得ようとするなら、南東に向って名号を一百八遍称えれば、官位を得るであろう。よき妻子を得ようとするなら、南方に向って名号を一百八遍称えれば、よき妻子を得るであろう。長命を得ようとするなら、西南に向かって名号を一百八遍称えれば、長命を得るであろう。多く従者を得ようとするなら、西方に向って名号を一百八遍称えれば、多くの従者を得るであろう。多くの人々から愛し敬われようとするなら、北西に向かって名号を一百八遍称えれば、多くの人々から愛し敬われるであろう。さまざまな願い事を得ようとするなら、北方に向かって名号を一百八遍称えれば、みなことごとく成就するであろう。

仏がこの経を説き終わると、千二百五十人はみな大いに歓喜し、信じ受け謹んで行なった。

仏説毘沙門天王功徳経

法華玄義 現代語訳  76

『法華玄義』現代語訳  76

 

また、「析空観の蔵教の二智」「体空観の通教の二智」「体空観に中道が含まれる別入通教の二智」「体空観に中道が表わされている円入通教の二智」のそれぞれに「化他の権実」「自行化他の権実」「自行の権実」がある合計十二種の二智は、すべて麁とするが、この中に中道も表わされているので、それは妙である。なぜなら、この妙は、後の「別教の二智」「円入別教の二智」「円教の二智」の妙と異ならないからである。また空・仮・中の三諦を順番に観心する「別教の二智」から「別教に円教が含まれる円入別教の二智」「円教の二智」のそれぞれに「化他の権実」「自行化他の権実」「自行の権実」がある合計九種の二智は、空・仮・中の三諦を順番に観心するものを麁とし、順番に観心しないものを妙とする。また「析空観の蔵教の二智」「体空観の通教の二智」「体空観に中道が含まれる別入通教の二智」「体空観に中道が表わされている円入通教の二智」「別教の二智」「別教に円教が含まれる円入別教の二智」のそれぞれに「化他の権実」「自行化他の権実」「自行の権実」がある合計十八種の二智は、みな麁であり、ただ空・仮・中の三諦を順番に観心しない円教の「化他の権実」「自行化他の権実」「自行の権実」の三種の智慧を妙とする。また、円教の中でも、「化他の権実」「自行化他の権実」を麁とし、「自行の権実」を妙とする。

また、五味の教えの区分によれば、乳味の教えは、別教・円入別教・円教の三種のそれぞれに「化他の権実」「自行化他の権実」「自行の権実」がある合計九種の二智であり、酪味の教えは、ただ一つの蔵教に「化他の権実」「自行化他の権実」「自行の権実」がある三種の二智、生蘇味の教えは、蔵教・通教・別教・円教の四種のそれぞれに「化他の権実」「自行化他の権実」「自行の権実」がある合計十二種の二智であり、熟蘇味の教えは、通教・別教・円教の三種のそれぞれに「化他の権実」「自行化他の権実」「自行の権実」がある合計九種の二智である。『法華経』はただ一つの円教の「化他の権実」「自行化他の権実」「自行の権実」の三種の二智である。中道を含まない酪味の教えの中の権・実はみな麁であり、醍醐味の教えの中の権・実はみな妙であり、他の乳味・生蘇味・熟蘇味の教えの三種の権・実は、中道を含まないものと含むものがあるので、麁もあれば妙もあるということになる。これ以上は自ら知るべきである。

(注:ここまでの箇所の内容は、ただ今まで述べられてきたことに基づいた組み合わせに過ぎず、何か新しい教義が加えられているわけではない。そのため、これ以上のことは自ら判断して知ることができると述べられているのである)。

ここまで述べてきたように、あらゆる智慧を解釈することをしなければ、あらゆる経典の異なる教えの意味を理解することは難しい。なぜなら、『華厳経』に「過去現在未来の三世の諸仏は、初住(しょじゅう・菩薩の初期段階の位)の智慧を知らない」とある。一般的にこの文の解釈については、「仏の如実智(にょじつち・すべてを知る仏の智慧)は、仏も仏自らの如実智を知らない。また初住の如実智も知らないのだ」と言っている。この解釈は、実に霊的真理において正しいと主張しても、実は正しくない。蔵教と通教の仏は、如実智を説いていない。知っていながら説かないことはないのだから、なぜ「仏も仏自らの如実智を知らない」と言うことができるだろうか。また別教の初住の位の人も、まだ如実智は得ていない。なぜ、「自らの如実智を知らない」と言うことができるだろうか。もしここまで述べて来たあらゆる智慧の意義から見れば、三世の蔵教の仏は、円教の初住の如実智は知らないのだ。これは、事象と理法の二つの解釈を兼ね備えているからである。なぜなら、この解釈は、まず「析空観の権実」「体空観の権実」「体空観に中道が含まれる権実」「体空観に中道が表わされている権実」「別教の権実」「別教に円教が含まれる権実」「円教の権実」の七つに「化他の権実」「自行化他の権実」「自行の権実」の三つがあり、全部で二十一種類の権・実の二智を分別し、次に麁に相対して妙を論じるからである。ここまで述べて来た通りである。

もし麁を開いて妙を表わせば、すべての方便の諦は、融合して妙諦となるので、諦に対して真実の智慧をもって照らせば、すべて麁ではなくなる。貧しい人の家であっても、そこに王が来て滞在するならば、そこは王の宮として荘厳されるようなものであり、多くの川が海に入れば、すべて同じ塩味になるようなものである。あらゆる麁の智慧を開けば、すなわち妙の智慧となるのである。

権・実の二智は、多くの教えに関わっているので、それらを比べ合わせるべきである。ここでは「七種の二諦」に対して、この二十一種の権・実の二智を比べたわけであるが、この意義を知れば、「十二因縁の境」と比べることもこれと同じであることを知る。すなわち、「析空観の十二因縁の二智」「体空観の十二因縁の二智」「体空観に中道が含まれる十二因縁の二智」「体空観に中道が表わされている十二因縁の二智」「三諦を順番に観心する十二因縁の二智」「三諦を順番に観心することを帯びる十二因縁の二智」「三諦を順番に観心しない十二因縁の二智」である。そして各々に「化他の権実」「自行化他の権実」「自行の権実」があって、合計二十一種の権・実の二智となる。さらに麁と妙を分別し、五味の教えを判別し、相待妙と絶待妙によって述べることなど、同じく四諦・三諦・一諦などにも応用できる。これは自ら知ることができるはずなので、ここで詳しく記すまでもない。

問う:随情の諦および化他の智慧はなぜ無量なのか。随智の諦および自行の智慧はなぜ多くないのか。

答える:一人の人を見ても、まだ仏道を究める前は、邪見の心が盛んに起こり、邪悪な執着が極まりない。ましてそれが多数の人となれば、どれくらいであろうか。このために、随情は多いのである。智慧は真理を見抜く。真理はただ一つなので、異なることはないのである。

このように、二諦の区別は上に述べた通りである。この七種の権・実、二十一種の権・実を説くにあたって、少しは世の人の執着するところの意義を用いるべきであろうか。少しは世の人の説く言葉に合わせるべきであろうか。少しは他の論書の主張を用いるべきであろうか。そもそも世の人は仏の教えに従わず、また経論の教えに従わないのだから、大乗と小乗の経典をもって、この解釈をしたのである。程度の低い教えを更新し、あるいは正しい教えを立てることは、すべて『法華経』の説くところである。もし、巧みな教えと拙い教えを比べれば、通教の経典の二智をもって三蔵教の経典の二智を更新し、最後の三諦を順番に観心する教えと順番に観心しない教えを比べれば、円教の経典の二智をもって別教の経典の二智を更新する。方便のあらゆる経典は、智慧を明らかにすることにおいては麁であるので、通教の経典の教えはどうして妙とすることができるだろうか。経典や論書がすでにこのようであるので、その経典や論書を広める人に対して、なぜわざわざ労して批判すべきだろうか。その教えに誤りがあれば、自ら落ちてしまうだけである。

もし生滅の教えをもって権・実の二智を解釈するだけならば、最初の段階に留まるだけである。もし不生不滅の教えをもって権・実の二智を解釈するだけならば、二番目の段階に留まるだけである。最後の七番目まで、自然と知れるだろう。またたとえ広く経論を引用して自らの主張を飾る者も、また最初の段階の随情の二諦、その化他の権実の範囲を出ることはできない。ましてや、自行化他の権実・自行の権実を出ることができるだろうか。最初の段階の三種の権・実の二智を出ることができなければ、なぜ七番目の三種の権・実の二智まで行くことができるだろうか。もしただ最初の段階の二智だけをもって、すべての世の中の執着を破れば、それだけで精一杯である。たとえ『法華経』で説かれているところの、旅の途中で休みを取る仮に作られた町に入ることができたとしても、それはただ自行の実智のみである。なお化他の権智さえ得ることはできない。なぜ他のあらゆる智慧を得ることができるだろうか。もし二十一種類の二智を求めるならば、どれくらいの他の宗教の誤った教えを破り、どれくらいの仮の経論の教えを破ることができるだろうか。またどれくらいの正しい教えを表わし、どれくらいの権の経論を立てて、最後にそれらをすべて妙権妙実とすることができるだろうか。

世の人は蔵教の権・実さえ知らず、人間的な感情の中のものを智慧としている。もしこれが本当の智慧ならば、どのような煩悩を破り、どのような真理を立てるというのか。実際は、真理を見ることができず、煩悩を破ることもできず、ただ生死を繰り返すのみである。これが単なる迷いの感情でなければ何なのだろうか。

ここで、前の多くの麁の智慧に対して妙の智慧を明らかにするならば、それは『法華経』の相対を破る意義である。もしこの意義に照らされるならば、すべての権の経論に説かれている教えは、みな妙の真理となり、真実の智慧でないものはない。すべての権の経論に説かれる権・実の二智を照らすならば、妙智でないものはなく、すべて『法華経』で説かれるところの最も優れた大きな車である。このような『法華経』の意義は深く広いので、『中論』などで説かれるところと比べるべきではない。このことはよく考えるべきである。

『観心本尊抄』 1

観心本尊抄』解説および現代語訳 1

 

如来滅後五五百歳始観心本尊抄

文永十年(1273年)四月二十五日 五二歳

本朝沙門 日蓮 撰

 

天台大師(てんだいだいし:智顗(ちぎ・538~598)。中国の陳から隋の天台宗第三祖。実質的の開祖とも言える)の『摩訶止観(まかしかん・天台大師講述の観心を具体的に説かれた書物)』第五巻に次のようにある。「一心に十法界(じっぽうかい・地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏という人が経るところの十種の世界)が備わっている。各一法界にまた他の十法界が備わっていれば、百法界である。一法界に三十種の世間(三種世間×十如是・別に注を記す)が備わっていれば、それが百法界になると三千種の世間が備わっていることになる(注:つまり一心に三千世間が備わっていることになる)。世間と如是は本来一つである。それは表現方法の違いに過ぎない。この三千世間は一念の心にある。もし心がないとするならば、すべてはない。心があれば、そこに必ず三千世間が備わっているのである。ここに心を不可思議境(人間の思考では理解できない観心の対象・十乗観法の第一)とする意味がある」。またある別の写本には「一法界に三種の世間が備わっている」とある。

(注:天台大師の教えは「観心(かんじん)」のための教えである。「観心」とは、自らの心の状態を観察することで、悟りを得ようとする修行方法である。一瞬の心の中に、すべてが含まれているので、心を観察することはすべてを対象としていることに等しい。その一念は十種類の在り方である「十法界」に及び、さらに「百法界」に及ぶのであるから、この世の次元に限らず、数限りない霊的次元が「観心」の対象となる。したがって、悟りを得るためにどこか遠くに行ったり、何かを新たに得たりする必要はないのである。

そして、「三種世間」とは、人々が住む世としての「衆生世間(しゅじょうせけん)」と、その人々が住む場所としての「国土世間(こくどせけん)」と、人の認識の生じる過程を五つの段階として表わした「色、受、想、行、識」の「五蘊(ごうん)」を世間とした「五陰世間」の三つである。哲学者の西田幾多郎が、『善の研究』の中で、「意識現象が唯一の実在である」と言っているように、人は認識的存在であるので、人間を肉体とはせずに「五蘊」と表現しているのである。まず「色(しき)」は「認識の対象があるとする状態」をいう。そもそも認識がまだ生じていないので、「認識の対象があるとする」というのは不適切であるが言葉がないのでこのように表現するしかない。「認識の対象がある」という動きが生じることは、そこに「自我」があるからであり、「色」は「自我」がある証拠ともいえる。そして「自我」はその人の過去世からの「業(ごう)」が生じさせるものである。なお、一般的に「色」は「物質」と解釈しているのがほとんどであるが、そもそも認識を離れた物質など存在しないので、この解釈は間違っている。次の「受」は、その対象が何かということを受け取ろうとする働きである。「想」は、その受け取られた情報が何であるか思い巡らすことである。「行(ぎょう)」は、その思い巡らした結果を踏まえ、意志が働くことを指す。「識」は意識することである。この「色」から「識」までが一瞬にして行なわれ、認識が生じるとする。この「五蘊」がすなわち人間のすべてである。そのため有名な『般若心経』では、冒頭に「五蘊はみな空である」とあり、「五蘊が空」であると悟れば苦しみから解放される、と教える。

次に「十如是(じゅうにょぜ)」は、『妙法蓮華経』すなわち『法華経』の「方便品(ほうべんぽん)」にある言葉で、「如是相」「如是性」「如是体」「如是力」「如是作」「如是因」「如是縁」「如是果」「如是報」「如是本末究竟等(ほんまつくきょうとう)」の十通りの言葉で、すべての実在の要素を十通りに分けて示したものとされる。この「十如是」について、天台大師の『法華玄義(ほっけげんぎ・天台大師講述の教理を中心として説かれた書物)』には次のように詳しく説明がある。

『「十如是」の最初の「如是相(にょぜそう)」の「相」とは、いわゆる外見による言葉である。見てわかる事柄なので「相」つまり姿や形というのである。次の「如是性(にょぜしょう)」の「性」とは、本来内にある事柄を指す。つまり本性のことであり、自ら改められるものではないので「性」というのである。「如是体(にょぜたい)」の「体」とは、正体つまり実質ということである。「如是力(にょぜりき)」の「力」とは、能動を意味する。「如是作(にょぜさ)」の「作」とは、材料をもって作ることを意味する。「如是因(にょぜいん)」の「因」とは原因のことであり、「如是縁(にょぜえん)」の「縁」とは「因」が「果」に向かうための条件のことであり、「如是果(にょぜか)」の「果」とは結果のことである。「如是報(にょぜほう)」の「報」とは、「果」による善悪の報いである。そして最後の「如是本末究竟等(にょぜほんまつくきょうとう)」については、「本」は「十如是」の最初の「相」を指し、「末」は直前の「報」を指し、「究竟等」とはその「相」から「報」までによって帰一するところを指す』。

そして「三種世間」×「十如是」×「百法界」とすることによって、すべての存在を網羅した数値を導き出しているのであり、その数値が「三千」ということである。つまり、「一念三千」とは、一瞬の心にすべてが含まれているため、その一瞬の心を観心の対象にする、ということなのである。さらに『法華玄義』で明らかになっているように、観心の対象を「境」と名付けるので、まさに「一念三千」とは、「境」のことを意味する。観心の対象である「境」が「一念三千」なのである。

そして、上に述べたように、人間は認識的存在であり、認識を離れて人は存在しない。認識がすべてである。したがって、「一念三千」=「すべて」ということである)。

 

問う:天台大師の『法華玄義』には、「一念三千」について説かれているのか。

答える:妙楽大師(みょうらくだいし・湛然(たんねん・711~782)。中国の天台宗の第六祖。唐の時代の天台宗中興の祖とされる。荊渓湛然(けいけいたんねん)と呼ばれる。日本の伝教大師最澄は湛然の孫弟子にあたる)は「説かれていない」と述べている。

(注:『法華玄義』には「一念三千」という言葉はないが、『法華玄義』で述べられている教理からは、じゅうぶん、一念の中にすべてが備わっているということは導き出される。同じく天台大師の講述である観心の実践書の『摩訶止観(まかしかん)』の中にも、「一念三千」という用語自体はないが、明らかに「一念三千」の教理は説いている。そしてこの「一念三千」という言葉を用いて、これが最も重要であるとしたのが、荊渓湛然である)。

問う:『法華文句(ほっけもんぐ・天台大師講述の『法華経』の言葉を中心として説かれた書物)』に「一念三千」について説かれているのか。

答える:妙楽大師は「説かれていない」と述べている。

問う:そのことについて、妙楽大師はどのように解釈しているのか。

答える:『法華玄義』にも『法華文句』にも「一念三千」という言葉はないと述べている。

問う:『摩訶止観』の第一巻から第四巻までに「一念三千」について説かれているのか。

答える:説かれていない。

問う:その証拠となる文はあるのか。

答える:妙楽大師の『止観輔行伝弘決(まかしかんぶぎょうでんぐけつ・『摩訶止観』の注釈書)』に「止観(しかん・心を観察する観心のこと)について、正しく観法を明かすために、一念三千をもって指南とした」とある。

(注:『観心本尊抄』の冒頭に、『摩訶止観』の第五巻にある「一念三千」の教理について述べられている箇所が引用されていた。上に述べたように、実際に「一念三千」という言葉は荊渓湛然が用いた用語であるが、間違いなく、この用語で表現されるべき教理である。そして、何度も「一念三千」について他の箇所で述べられていないのか、という問答が繰り返されていることは、日蓮上人が「一念三千」については『摩訶止観』の第五巻でその教理が説かれているということを強調する目的がある。

日蓮上人は、佐渡において、まず『開目抄』を記している。そしてそれに続いて、この『観心本尊抄』を記したわけであるが、これは表題にもあるように、「観心」についてである。天台教学では、「教学」と「観心」は、車の両輪のようにどちらが欠けてもいけないというほど、重要なものであるとされる。本来、「観心」は止観であり、瞑想を中心としたものであるが、日蓮上人はそうではなく、この「観心」という実践は、南無妙法蓮華経の五文字と、その周りに集まる仏菩薩諸善天人および祖師たちに対する信仰によって成就するとするのである。そのため、この書の最初に、「一念三千」という教理は、観心を説く『摩訶止観』にあるのだということを強調しているのである)。

(つづく)