大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 166

『法華玄義』現代語訳 166

 

第四目 法によって経を明らかにする

もし経という言葉を正しい翻訳の言葉とするならば、どのような法が経なのであろうか。古い解釈に三種ある。一つめは、声をもって経とする。仏は世にあって、尊い金口(こんく)をもって教えを説いたように、ただ声の音声をもって教えを明らかにし、聞く者に道を得させた。このために、声をもって経とするのである。『大品般若経』に「善知識に従って聞く」とある。二つめは、形あるものをもって経とする。もし仏が世にあれば、声をもって経とすることができるが、世を去れば、紙や墨をもって伝え保たれる。まさに形あるものをもって経とするべきである。『大品般若経』に「経巻の中に従って聞く」とある。三つめは、法をもって経とする。内面において自ら思惟し、心は法と合致する。それは他の教えによることでもなく、紙や墨によるものでもない。ただ心に明らかに悟れば、すなわち法を経とすることができる。このために、『成実論』に「私の法を修する者は、悟って自ら知る」とある。

声と形あるものと法の三つをもって経とし、この娑婆世界に施す。耳の能力が高い人が、声をもって分別して悟りを得るならば、その人にとって声が経であり、他のものは経ではない。もし心の作用の優れた人が、自らその心を磨き、思惟して悟りを得るならば、その人にとって法が経であり、他のものは経ではない。目の能力が高い人が、文字をもって理解して悟りの道理を得るならば、その人にとって形あるものが経であり、他のものは経ではない。これらは、眼・耳・意の三つを用いることであり、他の鼻・身・舌の三つは鈍いままである。鼻で紙や墨の匂いをかいても、知ることは何もない。身をもって経巻に触れたとしても、何も理解するところはない。舌で文字をなめても、どうしてその正しさや誤りを判別できるだろうか。

他の仏国土では、眼・耳・鼻・舌・身・意の六塵(ろくじん)を用い、あるいは、ただ一塵を用いる。『維摩経』に「一食をもってすべてに施す。このように食において等しい者は、法においてもまた等しい。法において等しい者は、食においてもまた等しい」とある通りである。これはすなわち舌根(ぜっこん)の対象となるものをもって経とすることである。あるいは別の仏国土では、天衣(てんね)に触れることを通して道を得る。これは触(=身根)をもって経とすることである。あるいは、仏の光明を見て道を得る。これは色(=眼根)をもって経とすることである。あるいは、無言の寂滅のままで心を観じて道を得る。これは意根をもって経とすることである。衆香土(しゅうこうど)においては、香をもって仏事をする。これは香(=鼻根)をもって経とすることである。また他の仏国土で六根の能力が高ければ、六塵をもって経とする。この娑婆世界は三つの根の能力が鈍い。人間の鼻の能力は、驢馬や犬や鹿に及ばない。どうして、香・味・触において、悟りに通じることができようか。

問う:六根の能力が高いために、六塵が経となれば、その能力が鈍い者には、六塵は経ではないのか。

答える:六塵は法界であって、その本体そのものが経である。能力が高い者に限って経となるのではない。なぜならば、『大品般若経』に「すべての法は色に赴き、その範囲を越えない」とある。この色(しき・この場合は形あるものを指す)とは、すべての法そのものである。

黒い墨の色においては、一画が一を表わし、二画が二を表わし、三画が三を表わし、そこに縦の一画を加えると王となり、右側に一画を加えると丑となり、左側に一画を加えると田となり、上に出せば由となり、下に出せば申となる。このようにさまざまに形を変えて、表わすところは尽くせない。あるいは、一字は無量の法を表わし、無量という文字は一法を表わす。無量という文字は無量の法を表わし、一字は一法を表わす。一つの黒い墨において、少し変えただけでも、その表わす量は大いに異なる。左に回せば悪を表わし、右に回せば善を表わし、上に点を打てば無漏を表わし、下に点を打てば有漏を表わす。殺すも生かすも与えるも奪うも蔑むのも褒めるのも苦しみも楽も、みな墨の中にあって、さらに一つの法でさえも、墨の外に出るものはない。

概略的にこれを述べれば、黒い墨は無量の教え、無量の修行、無量の理法を表わす。黒い墨はまた教えの本、修行の本、理法の本である。

黒い墨は、最初の一点から無量の点に至り、点から文字に至り、文字から句に至り、句から偈に至り、偈から巻に至り、巻から部に至る。また、点、文字、句の中から、最初に短い行を立て、後に長い行を著わす。また点や文字の中から、最初に浅い理法を見て、後に深い理法に至る。これを黒色の教・行・義の微発と名付ける。

また、黒色から点を湧き出させ、文字、句、偈を出して尽きることはない。あらゆる実在を湧き出させることは無尽であり、義を湧き出させることも無尽である。これを黒色に三つの涌泉(ゆせん)を備えると名付ける。

(注:ここまでの内容で、すでに明らかであるが、あまりにも当たり前なことをものものしく表現しているまでのことと思われても仕方がない。言うまでもなく、このような表現は現代においては相手にされない。これは当時の、そして中国という国においての論法として解釈すべきであろう)。

また、黒色によって、教・行・義の誤った教えを断つ。

また、黒色によって、教・行・義の髪の毛を結い、それをもって身を飾るようなものである。

また、色(しき・ここでは、色彩という意味ではなく、認識の対象となる形あるものという意味)は拠り所である。色によるために、それに縛られて六道の生死がある。色によるために、そこから解脱して四種の聖人がある。また、色を法と読むことができる。色の法則に従うために、教えと修行と理法を成就する。また、色は常である。色の教えは破られない。色の修行は改められない。色の理法は動かない。

まあ、色は翻訳することができない。色において多くの義が含まれるからである。また、色は翻訳することができる。色を名付けて経とするためである。

色の経を見る時、色の愛・見を知り、色の因縁生の法を知り、色の即空・即仮・即中を知る。色はすなわち法界であり、総合的に諸法を含む。法界の文字はすなわち空であれば、点はなく、文字はなく、句はなく、偈はない。句、偈、文字は、究極的に不可得である。これは文字であって文字ではなく、文字ではなく、また文字であることを知ると名付ける。

法華玄義 現代語訳 165

『法華玄義』現代語訳 165

 

第二目 有翻を明らかにする

第二に、翻訳する言葉があることについて、五つの項目を立てる。

一つめは、翻訳して「経」とすることである。経とは、経由(けいゆ)の意味である。聖人の心と口を経由するからである。さらにまた、この意義によって解釈すると、教由・行由・理由となる。すべての修多羅、すべての他の経典に通じる教え、ある経典に限った個別的な教え、すべての注釈書などは、みな聖人の心と口による。このため、教由と名付ける。すべての悟った後の修行、悟りの直前の修行、すべての信心の行、すべての教えによる行は、みな聖人の心と口による。このため、行由と名付ける。すべての世間の意義、すべての世間の外の意義、すべての方便の意義、すべての究竟的な意義は、みな聖人の心と口による。このため、義由と名付ける。教由は世界悉檀であり、行由は各各為人悉檀・対治悉檀であり、義由は第一義悉檀である。

また経とは、経を縦糸とすると、横糸の緯の意義に対応する。世間の絹の経は緯と共にこれを織れば、龍や鳳凰の模様ができるようなものである。仏は世界悉檀をもって経を説き、菩薩は世界悉檀の緯をもって織り、経と緯が合わさるために、賢聖の模様が成就する。また行について経緯を述べれば、慧行を経とし、行行を緯とし、経と緯が合わさるために八正道の模様が成就する。また理法について経緯を述べれば、真諦を明らかにすることを経とし、俗諦を明らかにすることを緯とし、経と緯が合わさるために二諦の模様が成就する。

二つめは、翻訳して「契(注:正しく符合するという意味)」とすることである。縁に契(かな)い、事に契い、義に契う。世界悉檀の説は縁に契う。各各為人悉檀の説は善を生じることに契い、対治悉檀の説は悪を破ることに契う。これを事に契うとする。第一義悉檀の説は、義に契う。

三つめは、翻訳して「法本」とすることである。すなわち、教え、修行、理法の本となることであり、前に説いた通りである。

四つめは、翻訳して「線」とすることである。線は教え、修行、理法を貫き保ち、落ちることがないようにする。身を飾るなどの意義は、前に解釈した通りである。また、線は糸で縫うという意義がある。教えを縫って章や句として次第させ、説法しやすくする。縁覚のような者は、十二部経の線に合致しないので、説法することができない。世俗的な知恵が豊かであっても、また経の線がないので、正しい言葉が成就しない。また線は修行を縫う。経によれば修行も正しく、経に合致しなければ悪しき修行となる。また理法を縫う。理法に証されることがなければ、六十二通りの邪道(注:外道の邪見を六十二通りに分類したものを六十二見という)に堕し、理法に証されれば、究竟の道に合致する。

五つめは、翻訳して「善語教」とすることである。またこれには、善行教・善理教がある。世界悉檀の説は善語教であり、各各為人悉檀・対治悉檀は善行教であり、第一義悉檀は善理教である。以上、修多羅に五種の翻訳があるということである。

 

第三目 無翻と有翻を融合する

昔、仏が初めて悟りを開いた時、インドの言葉と中国の言葉は今のようではなかった。翻訳できないということは、黄河以西の人々が伝えたことであり、最近の人々はそれを受けつつ、加えて中国語の音に当てはめた。現在は、漢訳仏典の意味も明らかとなって、インドの言葉もだいぶ理解できるようになった。どうして翻訳できないということに執着して、多くの意義を含むということを理解できようか。もし多くの意義を含むならば、なぜ五種に限るだろうか。もし翻訳する言葉があるならば、何をもって正しいとするだろうか。意義は多いとはいっても、どうして翻訳する言葉が多くてよいだろうか。もし修多羅を翻訳して経とすれば、修多羅に九種ある。それは十二部経のすべてを修多羅とする「通の修多羅」と、十二部経の第一を修多羅とする「別の修多羅」である。整然と分別された十二部経の中の「経部」と、経・律・論の中の「経蔵」とがあることを、どうして見ないことがあろうか。もし翻訳して「契」・「法本」などとすれば、またまさに十二部経の中に、「契部」・「法本部」・「線部」・「善語教部」などがあるとしなければならない。三蔵の中にも、まさに線などの蔵があることになる。あらゆる翻訳において、このような翻訳の方法は行なわれていない。なぜ「通の修多羅」だけが「経」と翻訳されるのであろうか。

大智度論』に「般若は尊く重く、智慧は軽く薄い。なぜ軽い言葉をもって重い言葉を翻訳するのだろうか」とある。もしそうならば、これは翻訳できないことの証拠である。また、実相は尊く重く、言葉で説くことはできないが、もともとインドの言葉で説くことができれば、どうして中国語でも翻訳できないことがあろうか。もし翻訳することができなければ、説くこともできない。これは翻訳することができる証拠である。

昔の解釈に「涅槃に三徳が含まれているので、滅度という言葉をもって翻訳とするべきではない」とある。また梁の武帝は「滅度は小乗の法なので、この言葉をもって大涅槃を翻訳すべきではない」と言っている。しかしこれは必ずしもそうではない。『涅槃経』に「涅槃、大涅槃がある」とある。そうであるならば、また「滅度、大滅度」があるはずである。『法華経』に「如来の滅度」とある。これがどうして「大滅度」でないわけがあろうか。すでに「小滅度」をもって「小涅槃」を翻訳するならば、どうして「大滅度」をもって「大涅槃」を翻訳できないことがあろうか。もし滅度は偏っていて三徳(法身、般若、解脱)を含まないとすれば、今ここで、三徳が含まれていることを述べる。滅とは、すなわち解脱である。解脱には必ず対応する人がいる。人はすなわち法身である。法身は単なる人の身体ではなく、そこに必ず霊智(りょうち)がある。霊智はすなわち般若である。また大はすなわち法身であり、滅はすなわち解脱、度はすなわち般若である。このように、滅度という言葉に三徳を含むことは明らかである。どうして翻訳がないことがあろうか。もし一つの言葉に執着すれば、あれとこれとが矛盾して、仏の心に到達することができないことは、すでに上に述べた通りである。

ここで、翻訳の有無を融合して、意義を妨げなく通じさせる。もし翻訳がないと言えば、その名称に五つの意義を含む。一つ一つの意義において、さらに三つの意義を含み、さらにその美しさを見る。もし翻訳があるとすれば、一つ一つの翻訳において、また三つの意義を備え、さらに意味の深いことが増し加わる。翻訳の有無に任せれば、どうして争う必要があろうか。『涅槃経』に「私は終わりまで世間と共に争わない。世間の智慧があると説けば、私もまたあると説き、世間の智慧がないと説けば、私もまたないと説く」とある。このように融通すれば、有と無の二つの立場も共に過失はなく、しかも正しい理由があることになる。

また次に、円教の義は際限がなく、あらゆる所に通じる。これは上に述べた通りである。もし正しく名称を翻訳すれば、この世の常識において混乱することはない。ここでは一つの名称によって正しい翻訳とし、また有と無の二つの立場にもわだかまりがないようにする。なぜならば、昔から今に至るまで、インドの言葉を中国語とするにあたって、みなその経典の題目を経としているからである。もし他の翻訳も正しければ、なぜ経ではなく契・線としないのだろうか。もし伝えられた訳がみなこのようであるならば、すなわち経という翻訳が正しいことが明らかである。もし等しく翻訳がないならば、どうして「わずかに生じるという意味」・「泉のように涌き出るという意味」などを述べるだろうか。ここで正しく経という言葉を用いれば、そこに多く意義が含まれることが強調される。教の本・行の本・義の本の三つの法の本、三つの「発せられる過程」、三つの「泉のように涌き出るという意味」、あらゆる「縄墨」、「花輪を結ぶこと」などの意義を含む。また契・線・善語教・訓法・訓常などの意義を含んで、経の一字の中に収められないことはない。他の句もまたこのようである。あらゆる大乗と小乗の教えは、みな経をもって共通の名称とするために、他の言葉は用いないのである。

法華玄義 現代語訳 164

『法華玄義』現代語訳 164

 

②発せられる過程

②.a.教の本

仏は四悉檀をもって説いたが、言辞(ごんじ)が巧みであって、次第に多くの意義を語り、最初、中頃、最後もすべて良く、円満具足することは、海の水が陸から次第に深くなっていくようなものである。

教えを聞く者は、最初は世界悉檀を聞き、次第に受け入れていき、教えの相を分別し、わずかに理解を生じていく。その理解は次第に増長し、明らかに教えの深みに達していく。また遍くあらゆる異なった論書を読み、広く智者の意図を知り、多く聞き知識を増し、ついに成仏するに至る。これは教えが発せられる過程である。

②.b.行の本

最初に各各為人悉檀・対治悉檀を聞き、よく修行を起こす。始めは人・天の小さな行、次に戒・定・慧をもって無漏の行に入り、見道・修道の位において、ついに無学を証する。小さな行から大きな行に入り、妙覚の位に終わることは、修行が発せられる過程である。

②.c.義の本

最初に第一義悉檀を聞き、次第に増広して、教えを聞く段階から思惟する段階に進み、煗法・頂法・世第一法の位に入る。次に見諦の位に入り、真実の第一義を得る。次に修道に入り、無学に至る。小乗から大乗に入り、真理に似る中道を見る。このように、末端から入って最後に義の中心に至る。

この三種を合わせて法門とすることができるが、小乗によれば、慧解脱・俱解脱・無礙解脱の三種の解脱を起こす。大乗によれば、初住の位の中に教えを発し、それが般若である。そして修行を発し、それが如来蔵である。そして理法を発し、それが実相である。このように、義が発せられる過程において多くの事柄が含まれるために、翻訳することができない。

③泉のように涌き出るという意味

「泉のように涌き出る」ということは、喩えをもって名付けることである。仏は四悉檀をもって教えを説くが、文と意義は無尽であり、教えの流れは絶えない。もし世界悉檀の一句が説かれるのを聞いて、そこから無量の教えを理解するならば、すべて理解するのに一か月から四か月、さらに一年になるであろう。それは風が空中において自由自在であり、妨げがないことのようである。最初の理解でさえ泉のように涌き出るものであるなら、ましてや後の理解はなおさらである。さらに如来はどうであろうか。石の間から流れ出て、遍く利益を与えるようである(a.教の本)。もし各各為人悉檀・対治悉檀を聞いて、無量の行、大河の砂の数ほどの仏法、あらゆる法門、一行が無量行となる行を起こすならば、善の境界に入って、八正道の道をまっすぐに上る(b.行の本)。もし第一義悉檀の理法が虚空のような教えを聞けば、虚空の法は測ることができず、すべてのところに遍く広がる。これを「泉のようにわき出る」と名付ける(c.義の本)。

この三種を合わせて法門とすることができるが、教えの泉は、四無礙弁の法無礙弁、行の泉は辞無礙弁、義の泉は義無礙弁である。残りの楽説無礙弁は三種に通じる。「泉のようにわき出る」ということは、自ら多く含むために、翻訳することができない。

④墨の縄(注:いわゆる大工道具の墨壺と同じ)という意味

仏は四悉檀をもって教えを説くが、最初に世界悉檀を聞いて、愛・見の邪教を断ち、邪教の風に迷わされることなく、正しい教えに入ることができることは、すなわち教えの墨の縄(a.教の本)である。もし各各為人悉檀・対治悉檀を聞いて、非道を遠く離れ、正しく三十七道品の道を通るならば、すなわち行の墨の縄(b.行の本)である。もし第一義悉檀を聞いて、愛・見の迷いを断ち、悟りの岸に至り、生死を保たず、また無為に住むことがなければ、すなわち義の墨の縄(c.義の本)である。

この三種を合わせて法門とすることができるが、教えの邪教を断つことは、八正道の中の正語であり、行の邪教を断つことは、正業・正精進・正念・正定などであり、義の邪教を断つことは、正見・正思惟などである。墨の縄ということは、自ら多く含むために、翻訳することができない。

⑤花輪を結ぶという意味

教えと行と理法を結ぶことは、花輪を結んで落ちないようにするようなものである。世界悉檀は、仏の教えの言葉を結んで落ちないようにする(a.教の本)。各各為人悉檀・対治悉檀は、あらゆる行を結んで落ちないようにする(b.行の本)。第一義悉檀は理法を結んで落ちないようにする(c.義の本)。

この三種を合わせて法門とすることができるが、教えを結ぶことは、口に誤りがないことを成就し、行を結ぶことはすなわち身に誤りがなく、義を結ぶことはすなわち心に誤りがないことである。またこれは三種の共智慧の行である。またこれは三陀羅尼である。教えが落ちないことは、聞持陀羅尼、行が落ちないことは行陀羅尼、義が落ちないことは総持陀羅尼である。もし身を飾ることを用いて解釈するならば、教えについては智慧荘厳と名付け、行については福徳荘厳と名付け、義については所荘厳である。所荘厳とは、すなわち法身であり、禅定の智慧に荘厳されることである。すべての衆生はみな法身を持つが、法身の本体は荘厳とは関係なく、天龍から軽んじられるほどである。もし禅定の智慧を修学して法身を荘厳すれば、すべてのものに敬われるのである。

昔の説によれば、「経に五義を含む」という。ここでは以上見たように、十五の義を含む。「経」という中国語をもってどうやって翻訳することができるだろうか。多くの意義が含まれるということは、以上のようである。

「経」という文字を訓読みすれば、「常」となる。ここでその訓を解釈すれば、天の魔も外道も改めたり壊したりすることができないことを、「教常」と名付ける。真実に正しく、雑な所がなく、それを超越することがないことを、「行常」と名付ける。自然に動じることがなく、決して他の意義がないことを、「理常」と名付ける。また「法」と訓読みすることは、法の軌範・行の軌範・理法の規範である。このように訓読みを解釈すれば、六つの意義が含まれるのである。中国語のたった一つの文字でさえ、こうである。ましてや複数のインドの文字よって成り立っている言葉を、どうして中国語のたった一つの文字で翻訳できるであろうか。

法華玄義 現代語訳 163

『法華玄義』現代語訳 163

 

第五項 経について述べる

 

これまで述べた釈名における「法」「妙」「蓮華」の名称の解釈は、『妙法蓮華経』に限られたことであるので、「別名(べつみょう)」の解釈であり、次に述べる「経」の一文字は、他の経典にも共通する名称であるため、この解釈は「通名(つうみょう)」である。この『法華経』の梵語は、「薩達磨分陀利脩多羅(さっだるまぶんだりしゅたら・古代インド語の原語では、サッダルマ・プンダリーカ・スートラとなる)」というべきである。「薩達磨」とは、中国では「妙法」と翻訳し、「分陀利」とは、中国では「蓮華」と翻訳する。すでに前に解釈した通りである。「修多羅」は、あるいは「修単蘭(しゅたんらん)」といい、あるいは「修妬路(しゅとろ)」という。楚と夏の国があった南方の翻訳であり、その国での翻訳はそれぞれ異なっている。あるいは「無翻(むほん・翻訳する言葉がない)」とし、あるいは「有翻(うほん・翻訳する言葉がある)」とする。

この経について述べるにあたって、五つの項目を立てる。①無翻を明らかにし(注:翻訳することができない理由を明らかにすること)、②有翻を明らかにし、③無翻と有翻を融合し、④法によって経を明らかにし、⑤観心をもって経を明らかにする。

 

第一目 無翻を明らかにする

古代インドの言葉は多くの意味を含み、中国の言葉は単純で浅い。単純なものをもって深い言葉を翻訳すべきではない。まさに、原語の発音のままがよい。しかし、あえて「経」という言葉を解釈するならば、開善寺智蔵が「これは正しい翻訳ではない。ただ中国語の経という言葉をもって、古代インド語のスートラという言葉に代えているのである。中国では、聖なる言葉を経と称し、賢人の言葉は子や史と称する。インドでは聖人の言葉を経と称し、菩薩の言葉を論と称する。このように、もともと翻訳することができないが、他に言葉がないので、適宜に言葉を代用するしかない。このために経と称するのである」と言っている。

「経」という言葉は正しい翻訳ではないことは明らかにしたが、しかし、この「スートラ」という言葉には五つの意味(①~⑤)がある。一つめは、①法の本ということである。二つめは、②発せられる過程がある。あるいは顕わし示すという意味である。三つめは、③泉のように涌き出るという意味である。四つめは④墨の縄という意味である。五つめは⑤花輪を結ぶという意味である。ここでは五つの意味を挙げるだけであり、翻訳はしない。今、この五つの意味を三つの観点から述べて、合計十五の意義を明らかにする。この三つの観点とは、一つめは、a.教の本、二つめは、b.行の本、三つめは、c.義の本である。

真理は言葉で表現することができないが、四悉檀の因縁をもって説かれるならば、言葉の教えとなる。世界悉檀は「教の本(教えの本という意味であり、さらに「本」は「もと」と読めばよいが、原文の表記に合わせて、ここでは「ほん」とする)」となり、各各為人悉檀・対治悉檀は「行の本(修行の本という意味)」ととなり、第一義悉檀は「義の本」となる。

①法の本について

①.a.教の本

仏の尊い口を通して説かれた一言を本として、無量の教えの言葉が出てくる。それが他の経典に通じる教えであっても、ある経典に限った個別的な教えであっても、時にふさわしく聞く者に施されるならば、聞く者は聞いて道を得ることができる。このために『華厳経』に「ひとつひとつの修多羅にまた無量の修多羅があって、それらを眷属とする」とある。もし後の人が理解できなければ、菩薩(この場合は経典解釈家)は仏の教えを本として、他の経典に通じる教えやある経典に限った個別的な教えを作って、それらによって経典を解き明かし、仏の説こうとしている教えがふさがれないようにする。求める者が道を得ることは、実にこの論書によるのである。しかし、他の外道などは、何かを説いているといっても、修多羅に合致せず、無駄な戯論(けろん)であり本となる教えがなく、道を得ることができない。

①.b.行の本

人に論争さえできない完全な教えを示して、理解できているか、できていないかを判断し、霊的な目を開かせ、人の霊的な病を救い治す。教えに従って修行すれば、他の経典に通じる修行や経典に限った個別的な修行を起こす。迷いの次元から悟りの次元に至り、清涼池に入り、甘露地に至る。涅槃の真実の教えの宝に対しては、衆生はあらゆる門から入る。このために知ることができる。経典は行の本である。

①.c.義の本(後の箇所では「理法の本」とも記される)

一句を通して一つの義を明らかにし、無量の句を通して無量の義を明らかにする。あるいは、一句を通して無量の義を明らかにし、無量の句を通して一つの義を明らかにする。あるいは、他の経典に通じる義や経典に限った個別的な義を明らかにすることを求めて入るので、経典は義の本である。

この三種を合わせて法門とすることができるが、教の本はすなわち聞慧(もんえ)であり、行の本はすなわち思慧(しえ)であり、義の本は修慧である。真理を見る立場からすると、法の本に多くの義が含まれるために、翻訳することができない。あるいは出生ということもあるが、これに従って知ることができるだろう。

法華玄義 現代語訳 162

『法華玄義』現代語訳 162

 

〇蓮華をもって行妙を喩える

蓮華の種は小さいといっても、その中に根、茎、花、葉が備わっていることは行妙を喩える。茎は慈悲、葉は智慧、しべは三昧、花が開くことは解脱である。また葉は三つの慈悲を喩えるが、まず、水を覆う青葉は、衆生の縁の慈悲を喩え、水を覆う黄色い葉は、法の縁の慈悲を喩え、丸まった葉は無縁の慈悲を喩える。つぼみが出てくれば、間もなく花が開くことである。無縁の慈悲が成就すれば、間もなく授記を得る。また、根、花、種、葉が、人や蜂に利益を与えることは、檀波羅蜜である。香気は尸波羅蜜である。泥から生まれることを恥じないのは忍波羅蜜である。成長することは精進波羅蜜である。柔らかく湿気を持つことは禅定波羅蜜である。汚れが付かないことは慧波羅蜜である。このように行妙を喩えるのである。

 

〇蓮華をもって位妙を喩える

蓮華は理即の位を喩える。芽が種の皮を破ることは、麁住の位(欲界における数息観の第一であり、音の出る息や、あえぐ息や、乱れる息を麁であると知る段階)であり、芽がその皮を出ることは、細住の位(欲界における数息観の第二であり、息が麁の状態になったことを知れば、すぐに整えて微細にする段階)であり、芽が泥を分かつことは欲定の位(欲界における数息観の第三であり、息の長短を知る段階)であり、芽が泥に留まることは未到の位(数息観の第四であり、息が体全体に行き渡ることを知る段階)であり、芽が泥を出て水の中にあるのは四禅の位(欲界を離れた色界の禅定)である。禅定は水のようであり、よく欲界の塵を洗う。水にあって成長することは、無色界の位を喩える。これによって観行即の蓮華の位を喩える。水を出ることは、見思惑を破ることを喩え、相似即の蓮華は十信の位である。虚空にあって花が開こうとすることは、十住の位を喩える。しべの台が生じることは十行の位を喩える。太陽に応じて花が開き始めることは、十廻向の位を喩え、花が開き終えて蝶や蜂が来ることは十地の位を喩え、しべや葉が落ちてしべの台だけがひとつ残ることは、あらゆる行が休息し、妙覚の位が円満し、仏果が確立され、真実に常であり安定していることを喩える。これはみな位妙を喩えることである。

 

〇蓮華をもって三法妙を喩える

蓮華が色・香・味・触の四微の対象となることは真性軌を喩え、種の房の中と茎や蓮根の中が空洞であることは観照軌を喩え、花托に囲まれていることは資成軌を喩える。これは三法妙を喩えることである。

 

〇蓮華をもって感応妙を喩える

蓮華が開いて虚空にあり、影が清らな水に映ることは、顕機顕応を喩え、影が濁った水に映ることは冥機冥応を喩え、影が波風の立った水に映ることは亦冥亦顕を喩える。『涅槃経』に「闇の中の樹の影」とある。夜の影が水に映ることは、非冥非顕の機と応を喩える。これは感応妙を喩えることである。

 

〇蓮華をもって神通妙を喩える

風が蓮華を揺るがし、東に上がり西に倒れ、南に向かい、北の水に映り、下の風には花は閉じ、上の風には開くならば、すなわちこれは大地の震動を表わすことである。これは地動瑞の神通を喩える。日が暮れて花が閉じることは入定瑞の神通を喩え、陽が出て花が開くことは説法瑞の神通を喩える。遠くから見れば赤く、近くから見れば白く、赤い花、青い葉が互いに映り合い、輝きを放つことは放光瑞の神通を喩える。香気が野に広く渡ることは栴檀風瑞の神通を喩え、花粉が広がることは天雨華瑞の神通を喩え、風が吹き雨が降り、蓮に打ち当たることは、天鼓自然鳴瑞(てんくじねんみょうずい)の神通を喩える。これらはみな神通妙を喩えることである。

 

〇蓮華をもって説法妙を喩える

花が閉じて開かないのは、一乗を隠して分別して三乗と説くことを喩える。各葉が正しく開くことは、会三帰一して、ただ一乗を説くのみのことを喩える。花が落ちて実があることは、教えを絶して理法が深い次元で一致することを喩える。如来は常に説法するわけではなく、さまざまな方法で真理を表わすということを知ることは、多聞(たもん)と名付ける。これらは説法妙を喩えることである。

 

〇蓮華をもって眷属妙を喩える

片隅の一辺より一つの花が生じ、次々とまた無量の蓮華を生じることは、業生の眷属妙を喩える。一つの蓮華の房より種を泥の中に落とし、さらに蓮華が生じ、次々にまた無量の蓮華が生じることは、神通の眷属妙を喩える。掘って蓮根を移し、種を取って他の池に植えると、蓮華が盛んになることは、願生の眷属妙を喩える。他の池から、かげろうや薄い霧のように飛んで来て、この池に入って蓮華が盛んになることは、応生の眷属妙を喩えることである。

 

〇蓮華をもって功徳利益妙を喩える

魚が蓮華の下に集まって呼吸し、蜂や蝶が蓮華の上に集まることは、衆生の果報の清涼の妙なる利益を喩える。蓮華を見る者が喜ぶことは因の利益を喩え、蓮華の葉を取って用いることは、三種の薬草の利益を喩え、蓮華の花を取って用いることは、妙なる小樹の利益を喩え、蓮華の種を取って用いることは、妙なる大樹の利益を喩え、蓮根を取って用いることは、妙なる実事の利益を喩える。これらは功徳利益妙を喩えるのである。

以上の喩え、および無量の譬喩は、迹門の中の十妙を喩えることである。

 

〇蓮華をもって本門を喩える

たとえば、一つの池に蓮華が最初に熟し、熟し終わって種が泥水の中に落ちて、また生長し、さらに成熟し、このように何度も成熟を繰り返し、歳月が流れて、ついに大きい池に遍く田のように蓮華が敷きつめられるようなものである。仏もまたこのようである。本初に因を修し、果を証することはすでに終わっている。衆生のために、さらに方便を起こし、生死の中にあって、初めての発心を示し、また究竟を示す。このように数々の生滅を繰り返すことは、無数百千である。本地から応を垂れ、下に対して凡俗に同化して、さらに次の五行(①~⑤)を修す。蓮華が更に茎と葉を生じさせることは、①聖行を修することを喩える。色・声・香・味の対象としての蓮の種が少しずつ成長することは、②天行を修することを喩える。丸まった葉が初めて生じることは、③梵行を修することを喩える。蓮の種が泥に落ちることは、諸悪に同化して④病行を修することを喩える。蓮華の芽の初めて萌え出ることは、小善に同化して⑤嬰児行を修することを喩える。このように、三世に衆生に利益を与えることは計り知れない。法界に遍満して、分身・垂迹・開迹・廃迹などの利益でないことはない。

もし蓮華でなければ、何によって遍くこのようなあらゆる事柄を喩えることができようか。法についての喩えを並べて表現するために、「妙法蓮華」と称するのである。

 

(注:以上、蓮華の譬喩について見てきたが、今まで述べられてきた教理に、とにかく蓮華を当てはめていると思わざるを得ない内容である。しかしそれはともかく、そのような論述を通して、迹門と本門の十妙の論述パターンが再び繰り返されているところが興味深い)。

法華玄義 現代語訳 161

『法華玄義』現代語訳 161

 

〇蓮華をもって十如是の境を喩える(①~⑩)

①たとえば、硬い蓮の実のようである。黒いことは染めがたいことを意味し、硬ければ壊れにくい。四角でもなく丸くもなく、生まれもせず滅びもせず、劫初には種もないために生じることがなく、今も初めと異ならないために滅びない。これが蓮の種の相と名付ける。すべての衆生の自性の清浄である心もまたこのようである。外からの煩悩に染まることがない。生死が積み重なっても、心性は留まることはなく、動かず、生じることなく、滅びることがない。すなわちこれは仏界の如是相である。『維摩経』に「すべての衆生はすなわち菩提の相である」とあるのは、この意義である。

②たとえば、蓮の種が、黒い皮や泥の中にあっても、その中心の白い肉は変わらないようなものである。すべての衆生の了因の智慧も、またこのようである。五住地惑(三界の見思惑を指す。見一切処住地惑・欲愛住地惑・色愛住地惑・無色愛住地惑・無明住地惑)の泥、生死の果報があっても、一切智の願はなお失われることはない。これは仏界の如是性の相と名付ける。このために「煩悩即菩提」という。また『大智度論』に「諸法は不生であるが、般若は生じる」とあるのは、この意義である。

③たとえば、蓮の種が泥の中にあっても、色・香・味・触の四微(しび・微は妙の意味と同じ。対象を認識することも、妙を認識することという深い洞察から来る言葉。また、人の認識の種類として、色(しき)・声(しょう)・香(こう)・味(み)・触(しょく)の五境(ごきょう)があげられるが、蓮華を認識する場合、声はないとして、この四つを挙げられている)の対象となることには変わりないことを、蓮の種の本体とするようなものである。すべての衆生の正因仏性も、またこれと同じである。常・楽・我・浄が不動不壊であることを、仏界の如是体と名付ける。『涅槃経』に「この薬草の薬の味は真実であって、山に生えている。草木叢林も覆い隠すことはできない」と記されていることは、この意義である。

④たとえば、蓮の種が皮の殻に覆われていて、泥の中にあるとしても、やがて花を咲かせようとする意志があって、成長の気があるようなものである。すべての衆生の心も、またこのようである。苦果に縛られ、執着に沈められているとはいっても、その中で悟りを求める心は大いに勇猛である。獅子の出す乳のようであり、その体の筋のようである。これを仏界の「如是力」と名付ける。ある経典に「もし菩提心を起こせば、無辺の生死を動揺させ、無始の有の輪を破る。閻浮提の人はまだ果を見ることができないが、よく勇猛に発心する」とある。

⑤たとえば、蓮の種は小さいとはいえ、黒い皮の中に、明らかに根、茎、花、葉、しべ、花托(かたく・蓮の種が収まっている蜂の巣のような部位)がすべて収まっているようなものである。これは蓮の種の「如是作」と名付ける。すべての衆生が初めて菩提心を起こすことはこのようなものである。明らかに理解し決心し、慈悲・四弘誓願をもって上に求め下を教化し、誓って成就を取り、志が疲労しない。これを仏界の「如是作」と名付ける。『華首経』に「すべてのあらゆる功徳は、みな初めの菩提心の中にある」とあるのは、この意義である。

⑥たとえば、蓮根は泥の中にあっても、花は虚空にあり、風に揺れ陽に照らされ、昼夜に増長し、栄養も足りる。すべての衆生もまたこのようである。無明の中から菩提心を発し、菩薩の行を修し、生死を離れて法性の中に入る。因としての修行が成就し、太陽のような仏に会って、神通力の風を被り、この心は念々に薩婆若海(さつばにゃかい・一切種智の広大なさまを海に喩えた古代インド語の音写語)に入る。これを仏界の「如是因」と名付ける。ある経典に「無量劫において得る功徳は、五つの茎の蓮華をもって然燈仏に捧げて得た功徳が多いことには及ばない。これは真の因の成就である」とあるのは、この意義である。

⑦たとえば、蓮華がしべに囲まれて、花の中や外に出ているようなものである。これを蓮華の「如是縁」と名付ける。菩薩もまたこのようである。真の因の中において、すべての修行や六波羅蜜を具足する。一つの行はすべての行であり、因を助けることは、しべが花の中にあるようなものである。果を得る時は、あらゆる行が終息することは、しべが花の外にあるようなものである。これを仏界の「如是縁」と名付ける。『法華経』に「諸仏のあらゆる道法を行じる」とあるのは、この意義である。

⑧たとえば、蓮華の花が開いて実を結び、その後、葉も花びらも落ちて、花托が残るようなものである。これを蓮の種の「如是果」と名付ける。菩薩もまたこのようである。真の因の感じるところの無上菩提の大いなる果が円満し、究竟して実を結ぶ。これを仏界の「如是果」と名付ける。このために『法華経』に「仏の弟子は道を行じ終わって、来世に仏となることができる」とあるのは、この意義である。

⑨たとえば、蓮の実が花托に囲まれているようなものである。これを蓮の種の「如是報」と名付ける。菩薩もまた同じである。大いなる果が円満し、無上の報いが満たされる。習果(しゅうか・修行によってもたらされた結果)の果は報果によるということは、実が花托によるようなものである。『法華経』に「このような大果報は、長く修行をして得るところである」とあるのは、この意義である。

⑩たとえば、色・香・味・触の四微の対象となる泥の中の蓮と、同じく四微の対象となる虚空にある蓮と、最初と最後が異ならないようなものである。これを蓮の種の「本末等」と名付ける。すべての衆生もまた同じである。本有(ほんう・永遠の昔(=本)から変わらずあるということ)の常・楽・我・浄の四徳が隠されていることを如来蔵と名付け、修行の結果の四徳が顕われることを法身と名付ける。性徳(=如来蔵)と修徳(=法身)の常・楽・我・浄は、一つであって二つではない。これを仏界の十如の「本末究竟等」と名付ける。『首楞厳経』に「衆生の如と仏の如は一如であって二如ではない」というのは、この意義である。

以上で、蓮華を用いて十如の境を喩えることを終わる。

 

〇蓮華をもって境妙を喩える(①~⑥)

①十二因縁を喩える

蓮の種が黒い皮と泥と水草などで覆われていることは、共通して上に説く通りである。すなわちこれは、十二因縁の最初の無明の種のことである。よく生じる力は行である。中に花やしべが巻かれるようにして備わっていることは識・名色・六処・触・受である。種にすでに潤いがあるのは愛・取・有である。種が丸く閉じているために出ることができないのは、老死である。よく芽が萌え出て黒い皮を切り裂くことは、無明の滅である。また黒い皮の中にあって生じないことは、諸行の滅である。黒い皮の外に出るのは、老死の滅である。これは概略的に蔵教・通教・別教・円教の四種の十二因縁を喩えることである。

四諦を喩える

黒い皮は、欲界・色界・無色界の三界の内の苦諦を喩え、白い肉は三界内の集諦を喩え、泥は三界外の集諦を喩え、水は三界外の苦諦を喩える。道諦と滅諦はわかるであろう。これは共通して四種の四諦を喩えることである。

③二諦を喩える

蓮根や茎や葉などは俗諦を喩え、蓮根や茎や葉などの中は空洞であることは、真諦を喩える。これは共通して蔵教・通教・別入通教・円入通教・別教・円入別教・円教の七種の二諦を喩えることである。

④三諦を喩える

真諦と俗諦は上に述べた通りである。蓮華が四微の対象となることは常・楽・我・浄に対応し、中道第一義諦を喩える。これは共通して別入通教・円入通教・別教・円入別教・円教の五種の三諦を喩えることである。

⑤一実諦を喩える

蓮華が四微の対象となり、無生無滅であることは一実諦を喩える。

⑥無諦を喩える

劫初(こうしょ・すべての始まり)に蓮華の生なく、今に蓮華の滅がないことは、無諦の無説を喩える。

以上、蓮華を用いて境妙を喩えることを終わる。次に残りの九妙を喩える。

 

〇蓮華をもって智妙を喩える

蓮華の内に生性(しょうしょう・生じる本性)があることは智妙を喩え、これから生じる部位が巻かれて備わり、それらに生性があることは空の智妙を喩え、しべや葉の生性は仮の智妙を喩え、四微の対象となる花托の生性は中の智妙を喩える。この三つの生性は、一心三智の妙を喩えるのである。

法華玄義 現代語訳 160

『法華玄義』現代語訳 160

 

第四目 正しく解釈する

もし『大集経』によるならば、修行の法の因果を蓮華とし、菩薩が蓮華の上に坐ることは因の花であり、仏の蓮華を礼拝することは果の花である。もし『法華論』によるならば、その住む所の国土を蓮華とする。また菩薩が蓮華の行を修することにより、その報いによって蓮華の国土を得る。まさに知るべきである。国土とそこに住む者の因果は、すべて蓮華の法である。どうして譬喩が必要であろうか。能力の低い者に、法性の蓮華を理解させるために、この世の花を用いて喩えとすることにおいても妨げはない。

しかし、『法華経』の中の二か所に「優曇鉢華(うどんはつげ・三千年に一度だけ咲く花)が一度だけ現われるのみ」とある。この花はもし生じれば、転輪聖王が世に出る。この『法華経』を説くならば、仏は授記を授ける。法の王は世間の王である。この霊瑞の花は、蓮華に似ているために、喩えとしている。この意義に従えば、これは喩えをもって妙法を表わしている。

譬喩には、部分的な譬喩と全体的な譬喩がある。『涅槃経』の通りである。ただ部分的な譬喩は、まるで月をもって顔を喩えても、眉毛や目は表現できないようなものである。雪山をもって象を喩えても、その尾や牙は表現できないようなものである。この法華三昧は、喩えとするものがないが、ただこの蓮華を喩えとするだけである。

花には多種ある。すでに前に説いた通りである。ただこの蓮華だけが、花と実が共に多い。因に万の修行があり、果に万の完全な徳があることに喩えられる。このために喩えとする。

また他の花は麁であり、九法界の十如是の因果を喩える。この花は妙であり、仏法界の十如の因果を喩える。

 

〇二門六譬

(注:これ以降の長い記述には、特に段落が設けられていない。しかし内容はいくつかの段落に分けられる。そのため、原文にはないが適宜に段落と見出しをつけながら進めて行く)

またこの蓮華の花をもって仏法界の迹門と本門の二門を喩えれば、それぞれに三つの譬喩(注:迹門と本門で合計六つの譬喩)がある。

迹門の三つの譬喩とは、次の通りである。

一つめは、花があれば必ず実がある。実のための花であるので、実は外からは見えない。これは、実(じつ)について権を明らかにすることであり、その意義は実にある。権は見えて、実を知る者がいないことに喩える。『法華経』に「私の意は測ることが難しく、問いを発する者もいない」とある。また「適宜に説く内容の意趣は理解することが難しい」とある。

二つめは、花が開くと実が現われる。しかも、花を用いて実を養う。権の中に実があっても、知ることができないことを喩える。今、開権顕実するに際して、その意義において権が用いられる。広く大河の砂の数ほどの仏法を知ることは、ただ実を成就させ、深く仏の知見を知らせるためである。

三つめは、花が落ちて実が成ることは、すなわち三乗を排除して一乗を顕わすことを喩える。「ただ一仏乗をもって直ちに道場に至る」とある。菩薩は修行をするので、見ることは明瞭ではない。しかし諸仏には修行がないので、見ることは明瞭である。たとえば、花が落ちて実がなるようなものである。

以上の三つは、迹門の最初の方便から導いて大乗に入り、最終的に円満することを喩えている。

また、三つの譬喩をもって本門を喩えるのは次の通りである。

一つめは、花に必ず実があるのは、迹に必ず本があり、迹に本が含まれることを喩える。その意義は本にあるといっても、仏の趣旨は知ることが難しい。弥勒菩薩も知ることができない。

二つめは、花が開いて実が現われるのは、開迹顕本を喩える。その意義は迹にある。よく菩薩に仏の方便を知らせる。すでに迹を知り終われば、かえって本を知り、生死を減らして仏道を進める。

三つめは、花が落ちて実が成るのは、廃迹顕本を喩える。すでに本を知り終えれば、また迹に迷うことはない。ただ法身において道を修し、さらに上の位を円満するのである。

この三つの譬喩は、本門の始めの初開より終りの本地に至ることを喩える。

この二門六譬は、それぞれさらに当てはまるものがある。

始めの迹門の一つめの譬喩は、仏界の十如より九界の十如を出すことについてである。次の迹門の二つめの譬喩は、九界の十如を開いて、仏界の十如を顕わす。迹門の三つめの譬喩は、九界の十如を排除して、仏界の十如を成就する。この三つの譬喩は迹門の最初から最後までを収め尽くす。もしこの意義を知れば、十二因縁・四諦・三諦など、智妙・行妙・位妙から始まって功徳利益妙までも、またこの譬喩を用いて喩えることができる。

本門の一つめの譬喩は、本門の仏界の十如から、迹門の中の仏界の十如を出すことについてである。本門の二つめの譬喩は、迹門の中の仏界の十如を開いて、本門の中の仏界の十如を顕わし出すことである。本門の三つめの譬喩は、迹門の中の仏界の十如を排除して、本門の中の仏界の十如を成就することである。最初から最後まで円満して、開合が具足する。以上が部分的に蓮華を用いて喩えとすることである。

次に、総合的な譬喩とは、次の通りである。『大智度論』に獅子吼(ししく・仏の説法が獅子が吠えるように力強いこと)の意義を理解するにあたって、深山の谷に住む純粋な血統から成長し、身力、手足、爪牙、頭尾、吠える声などの喩えをもって、獅子吼の法門を喩える。また『涅槃経』に波利質多樹(はりしったじゅ・赤い花をつける樹木)の黄色い葉と、尖った箇所と、斑点、果実などによって、広く修行者を喩えているようなものである。蓮華も同様である。最初の種子から実が成るまで、妙法を喩える。たとえば、堅くなった蓮の実の黒い皮の中に白い肉がある。色・香・味・触によって知られ、開花する時になって、細かな部位がある。花を開きしべを敷き、蓮の実の房ができるが、最初と最後は異なることはない。蓮華の最初と最後は、十如是が具足していることを表わす。仏界の衆生は、始めの無明から終わりの仏果に至るまで、十如是の法に欠けたところがないことを喩える。以上、総合的に喩えることを終わる。