『法華玄義』現代語訳 01
天台大師智顗(ちぎ・538~598)講述
灌頂(かんじょう=章安灌頂・しょうあんかんじょう・561~632)筆記
1.法華私記縁起
私、灌頂がこの書を記すに至った経緯を述べる。
大いなる教えが東に伝えられて来た歴史において、いったいどれくらいの人たちが、釈迦から教えを受けることなく(注:釈迦は過去の人物となっているから、当然教えを直接受けることはできない)、仏の教えを理解したであろうか。
たとえ、悟ったとしても、完全な霊的瞑想に入って、陀羅尼(だらに・人間には理解できない真理の「ことば」)を得た者がいたであろうか。
たとえ、悟りの智慧と瞑想を得たとしても、これをこの世に広めた人がいたであろうか。
たとえ、多くの聴衆を集めたとしてもなお、そこから離れ、山に入って、さらに霊的真理を求めた人がいたであろうか。
たとえ、山に入って真理を深め得たとしても、二つの国(陳と隋)の国王に招かれて教えを説いた人がいたであろうか。
たとえ、国王に敬われたとしても、国のために『仁王般若経(にんのうはんにゃきょう・特に国王の在り方などを説いた護国経典の代表)』を修した人がいたであろうか。
たとえ、宮殿に上ったとしても、国王に三礼をもって敬われた人がいたであろうか。
たとえ、国王が膝をかがめ、あらゆる身分の人々がその教えを喜んだとしても、その称賛の言葉や手を打つ音を、大いにとどろかせた人がいたであろうか。
たとえ、あらゆる人々に敬われたとしても、『法華経』の真意を悟った人がいたであろうか。
たとえ、『法華経』の真意を得たとしても、文字を用いることなく、その言葉が滞ることなく、昼夜を通して述べ続けた人がいたであろうか。
ただ私が敬う天台大師のみが、このような功徳を持っておられるのだ。
幸いにして、この灌頂は昔、建業(現在の南京)で、天台大師が『法華経』を講義されるのを聞き、江陵(現在の湖北省荊州市)で天台大師がこの『法華玄義』を説かれるのを聴いた。そして大師は晩年に天台山に入られたが、私はその入滅まで仕えた。このように、大師に従って荊州と揚州(現在の江蘇省揚州市)を往復した距離は万里にもなる。しかしその間においても、しっかりと『法華経』についての講義を聴いたのは、わずか一遍だけである。
まだ聴くことができていないところがあるばかりか、すでに聴いたこともまだ理解できていないところがあるので、まだまだ、確実にまとめるにはほど遠いと痛感する。
残念なことに、大師と私との縁が浅いのか、何度も聞いても、すべて満足いくところまで達していない。まるで子牛が乳を求めるような思いである。
しかし、思うに、この教えが伝わらないことは大いに悲しむべきことである。『涅槃経』には、たとえ木にも石にも仏の教えを刻んで残すべきだとあり、この『法華経』には、田にも里にも教えは伝わる、とある。このために、私もこれを伝えるのである。
『法華玄義(ほっけげんぎ・『法華経』に秘められた真意を説き明かしたもの)』と、『法華文句(ほっけもんぐ・同じく天台大師講述。『法華経』の経文構成を解き明かしたもの)』と、それぞれ十巻となる。
これらは、諸経論の真意によってこの深妙な教えを記し、または、諸師の異なる解釈を用いて、完全な教えとの違いを明らかにしている。後代の悟りを求める人々は、甘露の門がここにあることを知るであろう。