大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

一念三千法門 現代語訳と解説

一念三千法門

正嘉二年(1258)

三十七歳(注:『立正安国論』を著わす2年前)

 

法華経』が他の経典より勝っているということは、どのようなことであろうか。この経に、一心三観、一念三千ということが記されている(注:『法華経』には、一心三観、一念三千という言葉はない。『法華経』の真理は、一心三観、一念三千という教理をもって表わされた、という意味と思われる)。薬王菩薩は中国の世に出て天台大師と呼ばれ、この法門を悟られ、まず『法華玄義』十巻、『法華文句』十巻、『覚意三昧』、『小止観』、『浄名疏』、『四念処』、『次第禅門』などの多くの法門を説かれたが、それまでは、この一念三千の法門は語られず、百界千如の法門ばかりであった。五十七歳の夏四月のころ、荊州玉泉寺という所で、弟子の章安大師に教えられた『摩訶止観』十巻がある。その前半の四巻までは秘されていて、ただ、六即、四種三昧などばかりである。第五巻に至って、十境、十乗、一念三千の法門を立て、「一心に具す」などと説かれた。これより二百年後に妙楽大師が解釈して、「まさに知るべきである。身土一念の三千である。したがって、悟ならば、この本理に適って、一身一念法界に遍満する」と述べている。この一念三千、一心三観の法門は、『法華経』第一巻に記されている十如是(じゅうにょぜ・すべての在り方を、如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等の十種の如是によって表わす)から説き起こされる。この経文の中心的意味は、百界千如三千世間(十如是を基に、人が転生する十種の世界である十法界と、人とその国土の状態を表わした三世間とを掛け合わせて成り立っている)である。

さて一心三観という教理は、他の宗派では、単純に如是相・如是性というように読んでいるが、それでは二つの意義に欠けてしまう。天台大師と、その師である南岳慧思が立てた教理を知らないからである。当宗(天台宗のこと。この時点では、あくまでも日蓮上人は、自らを天台宗の僧と認識していた)には、天台大師の解釈の通り、三遍読んで(三転読)、その功徳を増している。それは、第一に、是相如(この相は如である、という意味)と相・性・体・力以下の十種を如とする。如ということは、空の意味であるために、十法界はみな空諦(くうたい・空という真理)となる。これを読み観じる時は、我が身はすなわち、報身(ほっしん・自らの功徳にふさわしい身を成就した仏)如来である。八万四千の法門、または般若ともいう。第二に、如是相(このような相、という意味。この読み方が、本来の『法華経』の読み方である)は、我が身の姿形が表された相である。これはみな仮の姿である。相・性・体・力以下の十種も同様であり、十法界はみな仮諦(けたい・空として捨て去るのではなく、仮は仮として価値を認める)といって、仮の意味である。これを読み観じる時は、我が身はすなわち応身(おうじん・この世の人々を導くために、姿を現わした仏。釈迦如来がその代表)如来である。または解脱ともいう。第三は、相如是(相はこのようである、という意味)は、中道といって、仏の法身(ほっしん・真理がそのまま姿となった仏)である。これを読み観じる時は、我が身はすなわち法身如来である。または中道とも法性(ほっしょう)とも涅槃とも寂滅ともいう。この三種の読み方を、法・報・応の三身とも、空・仮・中の三諦とも、法身・般若・解脱の三徳とも表現する。この三身如来は、我が身の外部にあるのではない。我が身はそのまま三徳究竟の体であって、三身即一身の本覚(ほんがく・もともと悟っているという意味)の仏である。これを知ることを如来とも聖人とも悟りともいう。知らないこと凡夫とも衆生とも迷いともいう。

十界の衆生は互いに他の十界を具足する。合わせて百界である。百界にそれぞれ十如を具足すれば千如である。この千如是に衆生世間・国土世間・五陰世間を具足すれば三千世間である。百界に表わされた色形は、みなすべて仮の義であるので、仮諦の一義である。千如はすべて空の義であるので、空諦の一義である。三千世間はすべて法身の義であるので、中道の一義である。法門は多いといっても、ただこの三諦に摂取される。この三諦を三身如来とも三徳究竟ともいう。始めの三如是は本覚の如来である。それは終わりの七如是と一体であり、無二無別であるので、本末究竟等という。この「本」というのは仏性(ぶっしょう・仏の本質という意味。仏性があるので仏となれるとする)、「末」というのはまだ表されていない仏を意味し、九界のことである。「究竟等」というのは、妙覚究竟の如来と、理即(六即のうちの一つの位。理論上、仏と同じという意味)の凡夫である我らと差別がないことを究竟等(究極的に等しいという意味)とも、平等大慧の『法華経』ともいう。

始めの三如是は本覚の如来である。本覚の如来を悟り出だされたのは、究極的な妙覚の位の仏であるので、我らは妙覚の父母である。仏は我らが生み出した子である。『摩訶止観』第一巻に、「止観(止は乱れた心を収めること。観は心を観察すること。したがって、止観は瞑想を中心とした修行のこと)の止はすなわち仏の母であり、観はすなわち仏の父である」とある。たとえば、人が十人いて、それぞれが蔵に宝を積んだが、自分の蔵に宝があることを知らなかった。そして次々に飢え死にし、凍え死んでいった。しかしその中に一人賢い者がいて、そのことに気づくようなものである。九人はついに知らないままでいたが、それでもある者は、教えられて食べ、ある者は無理やり口に食物を入れられるようなこともある。妙楽大師(荊渓湛然。唐の中国天台中興の祖)の『止観輔行伝弘決』第一巻に「止観の二字は正しく本を聞くことを示す、と聞かない者は、本末究竟等もいたずらであろう」とある。子であっても、親に勝ることも多い。重華(ちょうか・中国の神話で聖人とされる舜のこと)は、頑固な父を敬って賢人の名を得た。沛公(はいこう・漢の高祖劉邦のこと)は帝王となった後も、その父を拝した。その敬われた父を王とはいわず、敬った子が王と仰がれたようなものである。仏は子であるが、賢くあったので、自らを仏として悟り出された。凡夫は親であるが、愚癡ばかりでまだ悟っていない。この真理を知らない者は、そのようなことは毘盧遮那仏の頭を踏むようなものではないか、と悪口を言うが、大いなる誤りである。

一心三観について、次第の三観(空観、仮観、中観を順番に観じていく観法)・不次第の三観(三観を瞬時にひとつとして観じる観法)ということがある。ここでは詳しくは述べない。この三観を心に得て成就した境地を、『華厳経』には「三界唯一心(欲界、色界、無色界の三界のすべては、ただ一瞬の心にあるという意味)」とある。天台大師は「諸水入海(すべての川は異なっていても、同じ海に注ぐ)」と述べている。仏と私たちは理法においてひとつ(一切衆生理性一)であり、隔たりがないということを、平等大慧という。平等と書いて「おしなべて」と読む。この一心三観・一念三千の法門は、『法華経』以外の経典には記されていない。『法華経』に会わなければ、どうして成仏できようか。『法華経』以外の経典には、六界八界より十界を明らかにしているといっても、それ以上、具体的に明らかにしていない。『法華経』に基づいて、念々に一心三観・一念三千を観じれば、我が身が本覚の如来であることを悟り出だされ、無明(むみょう・迷いの根本)の雲晴れて法性の月明らかに、妄想の夢醒めて本覚の月輪いさぎよく、父母から生まれたままの肉身のまま、煩悩が備わったままの身は、そのままで永遠の昔から変わらない如来となるのである。これを即身成仏とも煩悩即菩提とも生死即涅槃ともいう。この時、その悟りの智慧によって法界を照らし見れば、すべて中道の一つの理法であって、仏も衆生も一つである。したがって、天台大師の解釈に、「一色一香、中道でないものはない」と述べられている。この境地においては、あらゆる世界はみな仏の寂光浄土である。どの世界を、阿弥陀仏や薬師仏の浄土というのだろうか。このことを、『法華経』には、「この法は法位にあって世間の相は常住なり」とある。

あるいは、経を読まなくても、心における観法によって成仏すればよいか、といえば、一念三千の観念も一心三観の観法も、妙法蓮華経の五字に収まるのである。妙法蓮華経の五字は、また私たちの一瞬の心に収まるのである。天台大師の解釈に、「この妙法蓮華経は本地の非常に深い奥義が納められている蔵であり、三世の如来の証得したところなのである」と述べている。

さて、この妙法蓮華経を唱える時、心中の本覚の仏が現われる。私たちの身と心を蔵に喩え、妙の一字を印に喩えて、天台大師の解釈に、「秘密の奥の蔵を開くことを妙という。権と実の正しい軌範を示して、法という。久遠の本果を指して蓮の実に喩える。不二の円道にあうこと蓮の花に喩える。声をもって仏事を行なうことを経とする」あり、また、「妙とは不可思議の法を褒め称えることである。妙とは十界・十如・権と実の法の妙である」とある。

経の題目を唱えることと、心の念を観じることと同じだとは思えないと、愚癡の人は思うであろう。しかし、天台大師の『摩訶止観』第二巻に、「説と黙において」とある。「説」とは経を読むことであり、「黙」とは心の念を観じることである。また『四教義』第一巻に「ただ功徳が無駄にならないばかりではなく、またよく理法に適う要旨である」とある。天台大師は薬王菩薩である。この大師は、説と観とを解釈された。もとより天台大師が解釈された『法華文句』の因縁・約教・本迹・観心の四種の解釈がある。四種あることを知らずに一つだけを見る人は、ただ本迹を中心として、ひたすら観心を表面に据える。『法華経』に法・譬・因縁ということがある。法について説く段落に至って、諸仏が世に出現した本当の目的は、すべての衆生が成仏するための道に進むことだと定めている。私だけではなく、すべての衆生がただちに悟りの道場に至る因縁であると定めることは題目である。したがって、天台大師の『法華玄義』第一巻に、「あらゆる小さな修行を合わせて、広大な一仏乗に帰す」とある。「広大」ということは、残らず導かれるということである。たとい、釈尊一人が、釈尊が世に出現された本当の目的を語られたとしても、等覚の位以下の者たちは、仰いでこの経典を信じるべきである。ましてや、諸仏が世に出られた本当の目的に対しては、なおさらである。

禅宗は観心が、仏が世に出られた本当の目的だとするが、これは天台大師の四種の解釈の一面にすぎない。一念三千・一心三観などの観心ばかりを『法華経』の中心だということならば、『法華経』の題名に「十如是」という言葉を入れるべきであろう。その題名が「妙法蓮華経」となっている限り、細かなことを述べるまでもない。また、今の世の禅宗は、教外別伝(きょうがいべつでん・肝要な悟りのことは、教えとして表現されてはいないということ)と言っているかと思えば、また捨てられるべき『円覚経』などの経文を引用している上は、真実の経典である『法華経』の経文について、いろいろ言われる筋合いはない。智者は、経典解釈と心の念の観法とに専念すればよい。愚者は、題目ばかありを唱えても、この『法華経』の理法に適うのである。

この「妙法蓮華経」とは、私たちの心の本性であり、総合的に見れば、すべての衆生の心の本性にある八葉の白蓮華の名である。これを教えてくださる仏の御言葉なのである。測り知れないほどの過去から今まで、私の心の中の本性に迷って、生死転生を繰り返したこの身は、今の世でこの経典に会い、応身、報身、法身三身がそのまま一つである本覚の如来を唱えることによって、現世において、自らの中に成仏を証することを即身成仏というのである。死んでも光を放つ、これを「外用の成仏」というのである。来世に仏となることができるということは、このことである。

妙楽大師は、「略して経題をあげても、そこに幽玄な真理のすべてがある」と言っている。題目を一遍唱えれば、そこに『法華経』のすべてがあるのである。「妙法蓮華経」と唱える時に、心の本性の如来が現われる。題目が耳に聞こえれば、測ることのできないほどの長い間の罪が滅びる。一念でも随喜すれば、即身成仏する。たとい信じることがなくても、それが種となって、その熟す時、必ずそれによって成仏する。妙楽大師は、「もし受け入れても、もし捨て去っても、耳を経て縁となる。あるいは従順しても、あるいは逆らっても、それによって解脱する」と言っている。日蓮に言わせれば、この「取・捨・順・違」の文は、肝に銘じるべき言葉である。『法華経』に「もし教えを聞く者があれば」と説かれていることは、このことと思われる。ここに、「聞く者」とある。もし念を観じる観法だけが成仏するならば、「もし観法をする者があれば」と説かれるべきであろう。

天台大師の解釈に、「十如是というのは十界である。この十界は一念より起こり、十界の衆生は表わされるのである」とある。この「十如是」という教えは、『妙法蓮華経』にある。この娑婆世界は耳で教えを聞いて、道を得る国である。以前にも述べたように、「まさに身と国が一念にあるということが三千ということであると知るべきである」とある。すべての衆生の身に百界千如・三千世間を摂取する理由を説明するために、このことが耳に触れるすべての衆生は、功徳を得る衆生である。「すべての衆生」というのは、草木瓦礫も、すべての衆生の内であろうか。感情を持つものと持たないもの、そもそも草木とは何であろうか。妙楽大師の『金錍論』に、「一草・一木・一礫・一塵、それぞれに仏性があり、それぞれに因果があり、縁因仏性(えんいんぶっしょう・仏性を表わすための修行などの条件を指す)、了因仏性(りょういんぶっしょう・仏性を照らし出す智慧を指す)を具足する」とある。『法華経』の「法師品」の始めには、「無量の諸天・竜王・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦樓羅・緊那羅・摩睺羅伽、人と非人(以上を天龍八部衆という)と、比丘・比丘尼たちは、妙法蓮華経の一偈一句を聞き、あるいは一念でも随喜する者には、私はみな阿耨多羅三藐三菩提(最高の悟りという意味)を得るという記(予言という意味)を授ける」とある。非人とは、総合的に人界の外にいるすべての感情を持つものである。それらが仏になるというならば、ましてや人界の者はなおさらである。

法華経』の行者は、教えの通りに修行すれば、必ず一生の中に一人も残らず成仏するであろう。たとえば、春と夏に田植えをするにあたって、早い遅いの違いはあっても、一年の中には必ず収穫することができる。『法華経』の行者も上・中・下の能力の人があっても、必ず一生の中に悟りを証得する。『法華玄義』第一巻に、「上中下の能力の者にみな記を与える」とある。観心だけで成仏しようと思う人は、一方に欠けた人である。ましてや、教外別伝の坐禅などはなおさらである。『法華経』の「法師品」に、「薬王菩薩よ。多くの人がいて、在家出家の菩薩の道を行じる時に、もしこの『法華経』を見聞し読誦し書写し保ち供養することがないならば、まさに知るべきである。この人は未だに菩薩の道を行じていることにはならない。もしこの経典を聞くことがあるならば、すなわちよく良い菩薩の道を行じていることになる」とある。観心だけで成仏するならば、どうして見聞読誦というのだろうか。この経は専ら聞くことをもって正体とする。

おおよそこの経は悪人・女人・二乗(声聞と縁覚)・一闡提(仏になれないとされる者)を選ばない。そのために、みな成仏する道といい、また、平等大慧ともいう。善悪不二・邪正一如と聞くところに、やがて内に証される仏となる。このために、即身成仏といい、一生に証得するために、一生妙覚という。正しい真理を知らない人であっても、唱えれば、ただ仏と仏が喜ばれる。そのことを、「私はすぐに歓喜し、また諸仏も同じである」とある。百千回調合した薬も口に飲まなければ病は癒されない。蔵に宝があっても、開いてそのことを知らなければ飢え、懐に薬を持っていても、そのことを知らなければ死んでしまうようなものである。如意宝珠といふ玉については、『法華経』の「五百弟子受記品」に記されているが、この経典の徳もまたそのようなものである。『法華経』を、観心修行をしながら読むことは言うにおよばず、観心修行をしなくても、最初に述べたように、「所謂諸法如是相如」と読誦すれば、「如」は空の意義であるので、我が身の過去世の業によって受けた相・性・体・力など、そこに備わる八十八種類の見惑(けんわく・誤った見解の煩悩)、八十一種類の思惑(しわく・生まれながらにして持つ煩悩)などは空となって、報身如来となる。「所謂諸法如是相」と読めば、それは仮の意義であるので、我がこの身の過去世の業によって受けた相・性・体・力など、そこに備わる塵沙の惑(じんさのわく・塵や砂などのように数えきれないほどの煩悩)はそのままで即身応身如来である。「所謂諸法如是」と読む時は、これは中道の意義に従って、業によって受ける相・性など、これに従う無明はみな退いて即身法身如来として心を開く(注:この三転読を表現するために、「所謂諸法如是相」という一文だけが引用されている。それは、何も知らなくても、この個所を読めば、三転読の功徳が生じるのだ、ということである。すなわち、本来なら次の「如是性」の最初の文字の「如」を一緒に読むことによって、「この相は如である」となって、空の意義が成立しているというのである。次は、正式に読むことで、仮の意義が成立し、次は、とにかく「かくの如し」だけ読めば、中道の意義が成立しているというのである。したがって、『法華経』を何も知らないで読んでも、これだけの功徳があるというのである)。

このように、「十如是三転読」として読まれることは、三身即一・一身即三身の意義である。三に分かれるといっても一である。一であっても三である。