大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

『摩訶止観』抄訳 その3

『摩訶止観』巻第五の上 「観不可思議境」の段より

 

一心に十法界(じっぽうかい・地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏という人が経るところの十種の世界)が具わっている。各一法界にまた他の十法界が具(そな)わっていれば、百法界である。一法界に三十種の世間(三種世間×十如是)が具わっていれば、それが百法界となると三千種の世間が具わっていることになる。この三千世間は一念の心にある。もし心がないとするならば、すべてはない。少しでも心があれば、そこに必ず三千世間が具わっているのである。

また、まず一心があって、すべては後に生じるとはいわない。また、まずすべてがあって、一心は後に生じるとはいわない(注・ここで、まず、心からすべてが生じるという華厳教学や唯識で説かれる唯心の教理を否定し、次に、これは一般人の常識と言えるが、まずすべての物事が存在して、それを認知して心が生じるという考えを否定している)。たとえば、八相(はっそう・人相における八種。つまり人の表情のこと)が物によって変化するようなものである。物がまだ相の前に現われていなければ、その物によって相は変化しない。相がまだ物の前にないならば、また相も変化しない。前にあることもできなければ、後にあることもできない。ただ物によって相が変化することを論じ、ただ相が変化することを物において論じるのである。この心(しん)もまたこのようなことである。

もし一心からすべてが生じれば、これは縦(じゅう・時間的なこと)である。もし心が一度にすべてを含んでいれば、これは横(おう・空間的なこと)である。縦もまたあり得ず、横もまたあり得ない。ただ、心そのままがすべてであり、すべては心そのものである。したがって、縦でもなく横でもなく、同じでもなく異なっているのでもなく、玄妙であり深絶であり、認識で知るところでもなく、言葉で表現するところでもない。このために不可思議境(十乗観法の第一の境)とするのである。ここに心を不可思議境とする意味がある。

(注:私の宗教的確信によれば、私はこの「心」を相対的認識主体と名付けている。そして、神様が絶対的認識主体である。両方とも主体であるので、認識の対象とはならない。そのために、知ることもできず、もちろん言葉に表現することはできない。この認識の対象とはならない認識主体を、観心の対象である「境」とすることが、天台大師の止観である。まさに不思議境である)。

問う:心が起こるならば、必ず縁(えん・あるものごとがさらに展開していって結果(果)に至る際に、必ず必要とされる条件のこと。修行に当てはめると、仏性が因であり、修行や智慧が縁であり、悟りが果である)との関係性が生じる。「心に必ず三千世間が具わっている」というが、心に三千の法が具わっているとするのか。縁に具わっているとするのか。それとも両方に具わっているとするのか。それとも別々に具わっているとするのか。もし心に具わっているならば、心が起こる際に縁は用いられない。もし縁に具わっているならば、縁に具わっているのだから、心は関係ない。もし両方に具わっているならば、まだ両方に具わっていない時に、その三千の法はどこにあるのか。もし別々に具わっているならば、その三千の法は心とは別であり、縁とも別なものとなる。なぜ即時に心に具わることがあろうか。以上の四つの場合はすべて正しいとは言えないではないか。なぜ三千の法が具わっているというのか。

答える:地論宗の人は、「すべての悟りや煩悩や真理や偽りは、法性(ほっしょう・真理の本性という意味)によっている。法性に真理と偽りは含まれており、真理や偽りは法性による」と述べている。また『摂大乗論』では、「法性は煩悩によって染められない。真理によっても染められない。このために、法性は何も含むことはない。それらを含むものは阿梨耶識(ありやしき・阿頼耶識ともいう。人の認識の根底にある識)である。ここに、消えることのない無明(むみょう・煩悩の根本)とすべてを生じさせる根本が完全に含まれる」とある。もし、地論宗の人に従えば、心にすべての法(単純にすべての存在という意味)が具わっており、もし『摂大乗論』を支持する人に従えば、すなわち縁にすべての法が具わっていることになる。この両方とも、それぞれの一辺に偏っている。もし法性がすべての法を生じさせるものであるならば、法性は心でもなく縁でもない。法性が心でないにもかかわらず、心がすべてを生じさせるのであれば、縁においても、法性が縁でないにもかかわらず、縁がすべてを生じさせるであろう。どうして法性だけが真理や偽りを含んでいるといえようか。もし法性はすべてを含まず、阿梨耶識がすべてを含むというならば、法性とは別に阿梨耶識がすべてを含んでいることになり、すなわち阿梨耶識は法性とは関係のないものとなってしまう。もし法性と阿梨耶識は関係しているとするならば、阿梨耶識がすべてを含んでいるということは、法性がすべてを含んでいることになる。どうして阿梨耶識だけがすべてを含んでいるといえるのか。また経典に説くところとも異なっている。経には「内でもなく、外でもなく、また中間でもない。また常に自らあるのでもない」とある。また龍樹の言葉にも異なる。龍樹は、「諸法(しょほう・単純にあらゆる実在という意味)は自ら生じるものではなく、また他から生じるものでもなく、その両方でもなく、因がないわけでもない」と述べている。

さらに喩えをもって述べるならば、心によって夢があるとすることと、睡眠によって夢があるとすることと、睡眠という事実と心が合わさることにより夢があるとすることと、心と睡眠とは関係なしに夢があるとすることをあげることができる。もし心によって夢があるならば、眠らなくても夢を見るであろう。もし睡眠によって夢があるならば、眠っているような死人でも夢を見るであろう。睡眠と心が合わさることにより夢があるならば、眠っている人がなぜ夢を見ない時もあるのだろうか。また、睡眠と心とそれぞれに夢があるならば、合わせても夢があり、それぞれに夢がなければ、合わせても夢はないであろう。もし、心と睡眠とは関係なしに夢があるとするならば、虚空があるとなしの二辺を離れているように、常に夢があるであろう。以上の四句に夢の所在を求めても、得ることはできない。しかしどうして睡眠における夢においてすべての事柄を見るのであろうか。心は法性を喩え、夢は阿梨耶識を喩える。どうして、法性だけ、あるいは阿梨耶識だけがすべてを生じさせるということができるだろうか。

まさに知るべきである。この四句によって心を求めても得ることはできない。また、三千の法を求めてもまた得ることはできない。すでに横(空間的)に四句に従っても、三千の法が生じることを求めることができないならば、まさに一念の心の「滅」により、三千の法が生じるとするべきであろうか。心の「滅」により一法も生じることはない。どうして三千もの法が生じることがあろうか。もし心の「亦滅亦不滅(やくめつやくふめつ)」により三千の法が生じるならば、「亦滅」と「亦不滅」とは、その本性が相違しており、それは水と火が同時に存在することはできないようなものである。どうして三千の法を生じさせることがあるだろうか。もし心の「非滅非不滅(ひめつひふめつ)」により三千の法が生じるならば、「非滅非不滅」は能動的なものでも受動的なものでもないので、どうして能動と受動によって三千の法が生じることがあるだろうか。「亦縦亦横(やくじゅうやくおう)」によって三千の法が生じることを求めることもできず、「非縦非横(ひじゅうひおう)」によって三千の法が生じることを求めることもできない。

言葉の道は絶えており、心の行じるところは滅している。このために、不可思議境と名付けるのである。『涅槃経』に、「生生不可説、生不生不可説、不生生不可説、不生不生不可説(生じることが生じることを説くことができず、生じることが生じないことを説くことができず、生じないことが生じることを説くことができず、生じないことが生じないことを説くことができない)」とあるのは、この意味である。