大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

報恩抄 その4

また、石淵の勤操僧正の弟子に空海という人がいました。後に弘法大師と号しました。延暦廿三年五月十二日に唐に入り、中国においては、金剛智・善無畏の両三蔵の第三の弟子である恵果和尚という人から両界曼荼羅を伝受され、大同二年十月二十二日に帰朝しました。平城天皇の時代です。桓武天王はすでに崩御され、弘法大師は、平城天皇にお目にかかり、帰依もされましたが、平城天皇はほどなく退位され、嵯峨天皇の世となりました。嵯峨天皇弘法大師を用いられましたが、伝教大師嵯峨天皇弘仁十三年六月四日に入滅され、同じ弘仁十四年より弘法大師嵯峨天皇御師となり、真言宗を立てて東寺を授けられ、真言和尚と号して、それより八宗が始まりました。弘法大師は釈迦一代の経典の勝劣を判じて、第一は真言宗の『大日経』であり、第二は『華厳経』、第三は『法華経』『涅槃経』などとしました。『法華経』は『阿含経』・「方等経」・『般若経』などに対すれば真実の経典であるけれども、『華厳経』・『大日経』に比べれば、戯論の教えである。教主釈尊は仏であるが、大日如来に対すれば、無明の辺域と言って、皇帝と浮浪者のようなものだ。天台大師は盜人である。真言の醍醐を盗んで、『法華経』を醍醐といっている、などと書に記しています。『法華経』は勝れていると思っていても、弘法大師に会えば、物の数にも入らないということです。

インドの外道はさて置いて、中国の南北の諸師が、『法華経』は『涅槃経』に対すれば邪見の経典だと言うよりもひどいことです。華厳宗が、『法華経』は『華厳経』に対すれば枝葉末端の教えだと言うことも超えています。たとえば、月氏国の大慢婆羅門が大自在天那羅延天・婆藪天・教主釈尊の四人を高座の足として、その上に上って邪法を広めたようなものです。伝教大師がご存命だったなら、一言出したはずです。また、伝教大師の弟子の義真・円澄・慈覚大師・智証大師たちは、何も思わなかったのでしょうか。天下第一の大凶です。

慈覚大師は、承和五年に唐に渡り、中国で約十年間、天台・真言の二宗を学びました。『法華経』と『大日経』の勝劣を学ぶ中で、法全・元政など八人の真言師には、『法華経』と『大日経』は、理法は同じで事相は『大日経』が勝っていると言いました。また、天台宗の志遠・広修・維蠲(ゆいけん)などに学んだところ、『大日経』は方等部に属すと言われました。同じ承和十三年九月十日に日本に帰り、嘉祥元年六月十四日に、密教の師として灌頂を行なってもよいとする宣旨が下されました。『法華経』・『大日経』などの勝劣は、中国で知ることができなかったためでしょうか、『金剛頂経』の疏七巻、『蘇悉地経』の疏七巻、合わせて十四巻を記しました。この疏の主旨は、『大日経』・『金剛頂経』・『蘇悉地経』の意義と、『法華経』の意義は、理法は同じだが、事相の印と真言とは、真言の三部経が勝れていると言っています。これはひとえに、善無畏・金剛智・不空の著わした『大日経』の疏の主旨に通じます。しかし、自らの心になお、疑いが残っていたのでしょうか。また、心では納得していても、人は不審がると思ったのでしょうか。この十四巻の疏を御本尊の御前に置いて、祈祷したそうです。このように記したけれども、仏の心は知り難い、『大日経』の三部が勝れているのでしょうか、『法華経』の三部が勝っているのでしょうか、と祈ったところ、五日後に夢に示しがあったそうです。青天に昇った太陽があり、矢をもって太陽を射れば、矢は飛んで天に上り、太陽に当たった。太陽は動転して地に落ちるところで、目が覚めました(注:大日は太陽のことである)。そのような夢を見て、「私は吉夢(きちむ)を見た。『法華経』より真言が勝れていると記した文は、仏の心にかなっている」と喜んで、宣旨を得て日本中に広めたのでした。しかも宣旨には、「ついに、天台の止観と真言の法義とは理法において同じであることが明らかとなった」とあります。祈って得た回答の本当の意味は、『大日経』は『法華経』より劣っているということなのですが、宣旨においては、『法華経』と『大日経』とは同じとあります。

智証大師は、日本においては、義真和尚・円澄大師・別当大師・慈覚大師の弟子です。顕教密教の二つの道は、だいたいこの国で学びましたが、天台・真言の二宗の勝劣に対して疑問があってか、中国に渡りました。仁寿二年に唐に入り、中国では、真言宗は法全・元政などに学び、『大日経』と『法華経』とは理法が同じで事相は『大日経』が勝っているという、それはだいたい慈覚大師の述べていることと同じです。天台宗は良諝(りょうしょう)和尚に学びました。真言と天台の勝劣については、『大日経』は『華厳経』・『法華経』には及ばないなどと言われました。七年間、中国にいて、貞観元年五月十七日に日本に帰りました。『大日経旨帰(だいにちきょうしき・智証大師円珍の著述。弘法大師の十住心を批判している)』に「『法華経』は及ばない、ましてや、他の経典はなおさらである」などとあります。この解釈は『法華経』は『大日経』には劣るということです。また『授決集(じゅけつしゅう・ここでは円珍は、『法華経』が最高の教えだと記している)』に「真言や禅門を、もし『華厳経』・『法華経』・『涅槃経』などの経典と比較するならば、真理に導き入れる方便の教えである」などとあります。『普賢経』の記や『法華論』の記には、「同じ」などとあります。貞観八年丙戌四月廿九日壬申、勅宣を得て、「聞くところによれば、真言・止観の両教の宗旨は、同じく醍醐とし、共に深秘と称される」などとあります。また、六月三日の勅宣には、「伝教大師は、止観業と遮那業を開いて、この宗の道とした。しかし、代々の座主はこれを兼ね備えることを伝えていない。後の学徒がどうして先師の教えに背いていいだろうか。聞くところによると、比叡山の僧侶たちは、先師の主旨に背いて、偏った執着の心を生じさせている。それは、天台宗の教えをますます発展させ、伝えられた教えを興隆させることを考えていないようなものだ。師から受け継がれたものは、ひとつも失ってはならない。教えを広めることに勤め、この二つを兼ね備えなければならない。今より以後、よくこの両教に通達した人をもって、延暦寺の座主とし、これ以降の恒例とすべきである」とあります。

以上のようでありますから、慈覚大師と智証大師の二人は、伝教大師や義真和尚の弟子であり、中国に渡って天台・真言の優れた師に会って学んでいますが、この二宗の勝劣に対する確信はなかったようです。あるいは真言は勝れていると言い、あるいは『法華経』が勝れていると言い、あるいは理法は同じで事相は『大日経』が勝っていると言っています。宣旨を得て言うには、二宗の勝劣を論ずるような人は、伝教大師の教えに逆らっていると戒めています。これらは、みな自語相違というものです。他宗の人はとても用いることができないと思われます。ただし二宗が同じであるということは、先師である伝教大師の解釈と宣旨に記されていると言っていますが、そもそも、伝教大師のどの書に、そのようなことが書かれているのでしょうか。このことは良く調べるべきです。

慈覚大師と智証大師と日蓮とが、伝教大師についてのことを、いろいろ言うことは、親の前で自分の年齢について言い争うようなものであり、太陽に対して、自分の目の方が明るいなどと言うようなものですが、慈覚大師と智証大師の側に立つ人々は、明らかな証文を出してほしいものです。それは、私も確信を得たいためです。玄奘三蔵月氏国の『婆沙論』を見た人だそうですが、インドにも行ったことのない法宝法師に責められました。法護三蔵はインドの『法華経』を見ましたが、「嘱累品」の後の部分を見てはいない中国の人から、誤りを指摘されました。たとい、慈覚大師は伝教大師から直接学んで伝えていると言っても、智証大師は義真和尚から口伝を受けたと言っても、伝教大師や義真和尚の記述に相違することを言うならば、どうして疑いを掛けないわけがありましょうか。伝教大師の『依憑集』という文は、大師第一の秘密が記された書です。その書の序に、「新しく伝えられた真言宗は、書を通して伝えられた教えを滅ぼすものであり、昔からある華厳宗は天台教学から影響を受けていることを隠し、今は勢いが衰えている三論宗は、昔、天台宗から責められた屈恥を忘れ、吉蔵と親しかった章安灌頂の言葉に酔ったことを隠している。有(う・すべては実在するという見方)に執着する法相宗は、濮陽(ぼくよう・法相宗の第三祖)が天台宗に帰依したことを否定し、青竜が天台の教判を用いたことを忘れている。このため、謹んで『依憑集』一巻を著わして、後世の同輩に贈る。日本第五十二代の弘仁七年丙申」とあります。

次に、『依憑集』の本文に、「インドの名僧が、中国の唐に伝わる天台大師の教えが、最も正しいものと誤ったものを区別していると聞いて、是非、それを見諦と思って(不空三蔵を)訪ねて来た、と言った」とあります。そして続いて、「それはまさに、仏教の中心である国がその教えを失って、周辺の国にそれを求めることである。ところが、その中国においてさえ、天台大師の教えについて知る人が少ない。それはまるで、孔子の出身の地である魯国(ろこく・現在の山東省南部に、紀元前1055年から紀元前256年にあった国)の人が孔子を知らないようなものである」とあります。この書は、法相宗三論宗華厳宗真言宗の四宗を責めているものです。天台宗真言宗の二宗が同じ教えならば、どうして責める必要がありましょうか。しかも、不空三蔵たちを、魯国の人のようだと書かれています。善無畏・金剛智・不空の真言宗が正しければ、どうして魯国の人と悪口を言われるでしょうか。またインドから伝わった真言宗が、天台宗に同じか、あるいはそれより勝れているならば、インドの名僧がどうして不空三蔵を尋ねて、中国に正しい教えはないと言うべきでしょう。それはともかく、慈覚大師・智証大師の二人は、言葉では伝教大師の弟子と名乗っていますが、心は弟子ではありません。なぜなら、この書に、「謹んで依憑集一巻を著わして、後世の同輩に贈る」とあります。同輩の二字は、真言宗天台宗より劣っていると学んでこそ、同輩となるでしょう。しかし、先に引用した宣旨には、「もっぱら先師の主旨に違い、偏った執着の心を生じている」などとあります。また、「おおよそ師の教えを受け継ぐ道は、その一つをも欠けてもならない」などとあります。この宣旨に従うならば、慈覚大師・智証大師こそ、もっぱら先師に背く人ではありませんか。このように責めるのもどうかと思うのですが、しかし責めなければ、『大日経』と『法華経』の勝劣の誤りが破られることはないと思って、命を懸けて責めているのです。このようなことですから、この二人が、弘法大師の邪義を責めなかったということは当然のことです。それならば、公費を費やして人を動員して、中国に渡るよりも、本師である伝教大師の教えをよくよく学ぶべきではなかったのでしょうか。したがって、比叡山の仏法は、ただ伝教大師・義真和尚・円澄大師の三代までであったと言わざるを得ません。天台の座主は、すでに真言の座主となってしまいました。名称と所領とは天台山、その主は真言の師です。このように、慈覚大師・智証大師は、昔説かれ、今説かれ、これからも説かれる『法華経』の経文を破ってしまった人ですから、どうして釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏の怨敵でないことがありましょうか。弘法大師こそ第一の謗法の人と思っていましたが、この二人は、それ以上の誤った師であります。そのわけは、水と火、天と地という違いは誰でもすぐにわかりますから、その違いに人は迷いません。弘法大師の教えは、余りにも間違ったものであるので、天台の弟子たちもこれを用いることはありません。事相はその密教のものですが、その教相の法門は、弘法大師の教えは受け入れることができないので、善無畏・金剛智・不空・慈覚大師・智証大師の教えを学ぶのです。慈覚大師や智証大師が、真言と天台とは理法では同じだと言えば、みな人は、その通りだと思うのです。このために、事相に勝れた印と真言とにおいて、天台宗の人々も画像木像の開眼の仏事を行なうために、日本中一つになって、真言宗となってしまって、真実の天台宗の人は、誰もいなくなりました。たとえば、法師と尼と、黒と青とは紛らわしいので、眼の悪い人は間違ってしまいます。僧と普通の男と、白と赤とは、眼の悪い人でも迷うことはありません。ましてや、眼の良い人はなおさらです。慈覚大師・智証大師の教えは、法師と尼と、黒と青のようなものなので、智慧のある人も迷い、愚かな人も間違って、この約四百年間、比叡山園城寺・東寺・奈良・五畿・七道・日本全国、みな謗法の者となってしまいました。

(つづく)