大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

報恩抄 その7

問う人が言います(注:この問いの文は非常に長い)。弘法大師の『般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)』には、「時に弘仁九年の春、天下に疫病が流行った。そこで天皇自ら黄金を筆端に染め、紺紙を手に握って『般若心経』一巻を書写された。私はその購読の役目を仰せつかって、経典の主旨を記し、まだ最後の願の言葉を述べる前に、生き返った人々が町を行き来した。そして、夜が変じて、太陽が燦燦と輝いた。これは愚かな私の身の戒徳ではない。金輪聖王である天皇の御信力の故である。ただ神殿に上る者だけがこの『般若心経秘鍵』を読誦し奉れ。私は昔、霊鷲山で釈迦の説法の座にあって、親しくその奥義を聞いた。どうしてその奥義に達していないだろうか」とあります。また、『孔雀経音義(くじゃくきょうおんぎ)』には、「弘法大師帰朝の後、真言宗を立てようと願って、諸宗を朝廷に集めた。人々は即身成仏の義を疑った。大師は智拳印を結んで南方に向いたところ、顔が突然開いて、金色の毘盧遮那仏となり、すぐにまた元通りとなった。入我我入(にゅうががにゅう・仏と自分が一体となること)のこと、即身頓証の疑いなど、この日に釈然として晴れた。こうして、真言瑜伽の宗、秘密曼荼羅の道、この時より立てられた」とあります。また、「この時に諸宗の学徒は大師に帰依して、はじめて真言を得て、利益(りやく)を増して習学する。三論宗の道昌、法相宗の源仁、華厳宗の道雄、天台宗の円澄などである」とあります。弘法大師の伝記には、「帰朝の船が出る日、発願して、私が学んだ教えと相応する地があれば、この三鈷(さんこ・先が三つに分かれている武具に由来する密教の仏具)がその場所に至るであろう、と言って、日本の方角に三鈷を投げると、遥かに飛んで雲に入った。そして十月に帰朝した」とある。また、「高野山の下に入定の所を定めた。それは、その海上で投げた三鈷がそこにあったためである」とある。この弘法大師の徳は無量である。そのうちの二つ三つを見てもこれほどである。どうしてこの人を信じないで、かえって信じる者は阿鼻地獄に堕ちると言うのですか。

答えて言います。私も、弘法大師の徳は信じようと思うのです。しかし、昔の人々も不可思議の徳あると言っても、仏法の邪正はこのようなことにはよらないのです。外道の者が大河を耳の中に十二年留め、大海を飲み干し、太陽と月を手に握り、僧侶を牛や羊に変えたとしても、さらに大いに高慢になって、生死の業を作るのです。このことを天台大師は、「名利を求め見愛を増す」と言っています。光宅寺法雲が、たちまち雨を降らし、一瞬にして花を降らしても、妙楽大師は、「感応はこのようであっても、なお理法は及ばない」と記しています。したがって、天台大師が『法華経』を読んで、瞬時に雨を降らせ、伝教大師が三日の内に甘露の雨を降らせても、それをもって仏意に叶うとはおっしゃいませんでした。弘法大師がどのような徳を持っていようとも、『法華経』を戯論の教えと定め、釈迦仏を無明の辺域などと言うようでは、智慧の賢い人は用いるべきではありません。さらに、上にあげられた徳なども、疑わしいものです。「弘仁九年の春に天下に疫病が流行った」といいますが、春は九十日ありますので、どの月の何日でしょうか。これが疑いの第一です。また、弘仁九年に疫病が流行ったのでしょうか。これが第二です。また、「夜に太陽が燦燦と照った」とありますが、これが最も大きなことです。弘仁九年は嵯峨天皇の時です。その歴史書に載っているのでしょうか。これが第三です。たとい載っていたとしても、信じがたいことです。今日に至るまでの成劫二十劫、住劫九劫、合わせて二十九劫の間、未だにない天変です。夜中に太陽が出現したということ、如来一代の経典にも見えません。未来に夜中に太陽が出るだろう、といういような記事は、三皇五帝(中国の理想的な皇帝。誰を挙げるかは諸説あり)の三墳五典(中国の貴重な文書という意味)にも載っていません。仏典においては、世の終わりの減劫にこそ二つ三つさらに七つの太陽は出るだろうとありますが、それは昼のことでしょう。夜に太陽が出現すれば、東西北の三方の所はどのようになるでしょうか。たとい内外の典籍に記されなくても、弘仁九年の春の何月何日、どの夜の何時に太陽が出たのでしょうか。公家・諸家・比叡山などの日記あるならば少しは信じることもできるでしょう。続く文に、「昔、私が霊鷲山で釈迦の説法の座にあって、親しくこの深い文を聞く」などとありますが、この記述を人に信じさせるために出した大妄語でしょうか。そうであるならば、霊鷲山にあって、『法華経』は戯論であり、『大日経』は真実であると、仏が説かれたことを、阿難や文殊菩薩が誤って『妙法蓮華経』が真実だと書いたのだと言うのでしょうか。見る価値のない婬らな女や破戒の法師などが歌を詠んで降らす雨を、三週間もかかってしまう人は、このような徳があるのでしょうか。これが第四です。『孔雀経音義』には、「弘法大師が智拳印を結んで南方に向かったところ、顔がいわかに開いて金色の毘盧遮那となった」などとあります。これはまたいずれの王の時の何年でしょうか。中国では、建元を初めとし、日本では大宝を初めとして、僧侶から俗人に至るまでの日記において、大事には必ず年号がありますが、これほどの大事に対して、どうして王も家臣も、年号も日時も記していないのでしょうか。また、次に、「三論の道昌・法相の源仁・華厳の道雄・天台の円澄」などとあります。そもそも円澄は寂光大師と呼ばれ、天台第二の座主です。その時になぜ第一の座主である義真や、根本の伝教大師を召さないのでしょうか。円澄は天台第二の座主であり、伝教大師の弟子ですが、また弘法大師の弟子でもあります。弟子を召すより、また三論宗法相宗華厳宗より、天台宗伝教大師や義真の二人を召すべきでしょう。しかも、この記録には、「真言瑜伽の宗、秘密曼荼羅道は、この時より建立された」などとあります。この記述は伝教大師や義真が存命の時と思われます。弘法大師平城天皇の大同二年より弘仁十三年まで盛んに真言を広めた人です。その時はこの二人は現におられました。また義真は天長十年まで存命でしたから、その時まで弘法大師真言は広まらなかったのでしょうか。疑わしいことです。『孔雀経』の疏は弘法大師の弟子の真済が記したものです。信じられません。また邪見の者が公家・諸家・円澄の記を引用したのでしょうか。また道昌・源仁・道雄の書を調べるべきです。「顔がいわかに開いて金色の毘盧遮那となる」などとありますが、何が開いたのでしょうか。口が開けたのでしょうか、眉間が開けえたのを誤って顔と記したのでしょうか。いいかげんな書を記したために、このような誤りがあるのでしょうか。「弘法大師が智拳印を結んで南方に向かったところ、顔がにわかに開いて金色の毘盧遮那となる」などとありますが、『涅槃経』第五巻には、「摩訶迦葉は、仏に申し上げた。世尊よ。私は今、この四種の人に頼りません。その理由は、『瞿師羅経(くしらきょう・現存せず)』の中に、仏が瞿師羅のために次のように語られました。『もし天・魔・梵天などが、惑わそうとして仏の像となり、三十二相八十種好を具足し荘厳し、円光があたりに広がり、顔面が満月のように円満であり、眉間の白毫相が雪のように白く、さらに、左の脇より水を出し、右の脇より火を出すとしても、信じてはならない』とあります」。また、「仏は摩訶迦葉に語られた。私の涅槃の後、この魔はしばらく私のこの正しい教えを破壊しようとするであろう。そして、変化して阿羅漢の身および仏の身となって、魔王はその煩悩の身をもって悟った者の身となり、私の正しい教えを破るであろう」とあります。弘法大師は『法華経』を『華厳経』・『大日経』に対して戯論であるなどと言います。しかも、仏身を現わしました。この『涅槃経』には魔が煩悩の身のままに仏となって、私の正しい教えを破ると記されています。『涅槃経』において正しい教えは『法華経』です。このために、この経典には、「遠い昔にすでに仏となった」とあり、また、「『法華経』の中にある通り」などとあります。釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏は、すべての経典に対して『法華経』は真実であり、『大日経』などの他のすべての経典は真実ではないと言います。弘法大師は仏身を現わして、『華厳経』・『大日経』に対して『法華経』は戯論だと言います。仏説が真実ならば、弘法大師は天魔ではないでしょうか。また、三鈷のことも特に疑わしいです。中国の人が日本に来て掘り出したということも信じられません。すでに以前に人を遣わして、埋めたのではないでしょうか。ましてや、弘法大師は日本の人であり、このような非常識な話は数多くあります。このようなことをもって、仏の心にかなう人であるという証拠とはしがたいです。

(注:偉人の伝記には、創作話がつきものである。特に弘法大師の伝記にはそれが多い。それら一つ一つに反論することはきりのないことであり、伝記の記述とはそのようなものである、ということで片付けるのが最善である。また、日蓮上人の文の中にも、一方的な思い込みによる記述が多いのであるから、どれが真実でどれが疑わしいということを、日蓮上人自身も言う資格がない。要は、霊的真理にかなっているか、かなっていないか、であり、いくら創作話であっても、霊的真理に合致しているならば、それは真実である)。

 

(つづく)