大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

『摩訶止観』抄訳 その4

『摩訶止観』巻第二の下 「帰大処」の段より

 

◎帰すべき境地

第五に、すべては絶対的な空(注:原文は「畢竟空」。絶対的な空を意味し、空でないことに相対しない空)であるという究極的境地(大処)に帰すために、正しい止観(注:原文は「是の止観」。是は正しいという意味)を説くことについて述べる。

手に膠(にかわ)を塗れば、物は付やすくなり、寝ている夢は覚めやすい。経論の文に執着して意義を狭めて解釈し、それを自ら正しいという。争うようにして瓦礫を取って瑠璃の珠だと言い、目の前のことや、言葉に明らかにされたことさえ知らない。これではどうして深い理法や秘密の教えを知ることができるだろうか。どうして迷わないことがあろうか。このために、しばらく帰すべき境地について述べる。

(注:止観が目指す涅槃を三徳に置き換え、三徳が帰すべき境地、つまり旨帰というのである。しかし、三徳は三のままではなく、三にして一である)。

帰すべき境地とは、それこそ経論の文が指し示そうとするところである。川の流れが海を目指し、火炎が空に向かって昇るようなものである。秘密の教えを悟り、深遠な真理に達し、滞ることがない。たとえば、聡明な家臣が王の秘密の言葉を理解するように、説かれたことを聞いて、みな了知して、一切智(いっさいち・すべての真理を知る智慧)の境地に至る。

この意義を悟る者は、すなわち「旨帰(しき)」を理解する。「旨」とは、自ら三徳(法身・般若・解脱)に向かうことである。「帰」とは、他の人を導いて同じく三徳に入らせることであり、このために旨帰という。また、自ら三徳に入ることを帰と名付け、他の人を三徳に入らせることを旨と名付け、このために旨帰と名付ける(注:つまり、自ら悟りに入ることも、他の人を悟りに導くことも、全く同じ、という大乗の精神がここに見られる)。

 

〇総相の旨帰

ここで、さらに総相と別相において、旨帰について明らかにすれば、次の通りである。諸仏は一大事因縁のために世に出現し、あらゆる姿を示して、すべての衆生に同じく法身を見せさせ、法身を見せ終わって、仏と衆生は共に法身に帰す。また、仏はあらゆる教えを説いて、すべての衆生如来の一切種智(いっさいしゅち・すべての現象の中にある真理まで見抜く仏の智慧)を究めさせ、一切種智を具え終わって、仏と衆生は共に般若に帰す。また、仏はあらゆる方便、神通変化(じんつうへんげ)を現わし、あらゆる煩悩の縛りから解脱させる。一人だけに滅度を得させるのみならず、みな如来の滅度をもって各人の滅度とさせる。すでに滅度し終わって、仏と衆生は共に解脱に帰す。『涅槃経』に、「あらゆる子を秘密蔵の中に安置する。私もまた久しからず自らその中に住もう」とある。以上が総相の旨帰である。

 

〇別相の旨帰

別相とは次の通りである。

法身に三種ある。一つは色身(しきしん・姿を持つ仏)、二つは法門身(ほうもんしん・教えそのものが仏とする)、三つは実相身(じっそうしん・真理そのものが仏とする)である。もし教化をしない状態において帰するところを述べれば(注:つまり、教化において三種として現われるわけであるから、教化をしなければ元の状態に帰る、ということである)、色身は解脱に帰し、法門身は般若に帰し、実相身は法身に帰す。

般若に三種ある。一つは道種智(どうしゅち・衆生を教化する時、道にどのように導いたら良いか知る智慧)を説き、二つは一切智を説き、三つは一切種智を説く。もし教化をしない状態において帰するところを述べれば、道種智は解脱に帰し、一切智は般若に帰し、一切種智は法身に帰す。

解脱に三種ある。一つは塵沙惑の縛りを解き、二つは見思惑の縛りを解き、三つは無明惑の縛りを解く。もし教化をしない状態において帰するところを述べれば、塵沙惑の縛りを解いて解脱に帰し、見思惑の縛りを解いて般若に帰し、無明惑の縛りを解いて法身に帰す。

この意義のために、別相の旨帰もまた三徳の秘密蔵の中に帰す。

 

A.三種の法身

また次に、三徳は三ではなく一でもなく、不可思議である。なぜであろうか。もし法身はただ法身だといえば、法身ではない。まさに知るべきである。法身はまた、身、非身、非身非非身である。

色身については、仏は首楞厳三昧(しゅりょうごんざんまい)に住してさまざまに示現して、あらゆる色像を作る。このために身と名付ける。なすところが終われば、解脱に帰す。

法門身において、智慧はあらゆる色(しき)は色ではないと照らす。このために非身と名付ける。なすところが終われば、般若に帰す。

実相身は色身ではなく、法門身ではない。このために非身非非身(注:身と非身を否定しているのではなく、実相はすべてに遍満するので、身にも非身にも偏らないという意味)である。なすところが終われば、法身に帰す。

この三身には異なった相はないと達する。これを帰と名付ける。この三身は異なった相はないと説く。これを旨と名付ける。共に秘密蔵に入る。このために旨帰と名付ける。

 

B.三種の般若

もし般若はただ般若だといえば、般若ではない。まさに知るべきである。般若はまた、知、非知、非知非非知である。

道種智の般若は、遍く俗諦(=仮諦)について知る(注:一般の衆生を導くため)。このために知と名付ける。なすところが終われば、解脱に帰す。

一切智の般若は、遍く真諦(=空諦)を知る。このために非知(注:真理である真諦は思議では知ることができない)と名付ける。なすところが終われば、般若に帰す。

一切種智の般若は、遍く中諦(注:ここに空・仮・中の三諦がそろう)を知る。このために非知非非知(注:知と非知を否定しているのではなく、知にも非知にも偏らないという意味)と名付ける。なすところが終われば、法身に帰す。

この三つの般若には異なった相はないと達する。これを帰と名付ける。この三つの般若は異なった相はないと説く。これを旨と名付ける。共に秘密蔵に入る。このために旨帰と名付ける。

 

C.三種の解脱

もし解脱はただ解脱だといえば、解脱ではない。まさに知るべきである。解脱はまた、脱、非脱、非脱非非脱である。

方便乗の解脱は、衆生を調伏して、それでも世に染まることはない(注:上には、「塵沙惑の縛りを解く」とあるが、衆生を導くために世で方便を用い、無数にある世の塵沙惑の縛りを解くため、方便乗と名付けている)。このために脱と名付ける。なすところが終われば、解脱に帰す。

円乗の解脱は、衆生および解脱の相を見ない(注:上には、「見思惑の縛りを解く」とあるが、見思惑は差別を認識するために起こる。これは空諦であるから具体的にも抽象的にも差別相はない)。このために非脱と名付ける。なすところが終われば、般若に帰す。

性浄の解脱は、すなわち非脱非非脱と名付ける(注:上には、「無明惑の縛りを解く」とあるが、無明惑はすべての煩悩の本性であり、その本性が清浄であれば法身である)。なすところが終われば、法身に帰す。

この三つの解脱には異なった相はないと達し、説くことは、共に秘密蔵に入る。このために旨帰と名付ける。

 

〇新故の旨帰

また次に、三徳は「新」でもなく、「故(こ・古いということ)」でもなく、しかも、新であり故である。なぜならば、見思惑と塵沙惑と無明惑の三障は、三徳の妨げとなる。無明惑は法身を妨げ、取相惑(しゅそうわく・見思惑は、差別相を取るために起こるのでこのように名付けられる)は般若を妨げ、無知惑(むちわく・塵沙惑は、無知から起るのでこのように名付けられる)は解脱を妨げる。この三障は昔からあるものなので故と名付けられる。三徳は三障を破り、今、はじめて表われるものなので新と名付けられる。

しかし、三障即三徳、三徳即三障である。三障即三徳であるので、三障即非故である。三徳即三障なので、三徳即非新である。非新でありしかも新であるので、すなわち発心して得る三徳と、そして究極的に得る三徳がある。非故でありしかも故であるので、すなわち発心して対処する三障と、そして究極的に対処する三障がある。新即非新であり、故即非故であるので、すなわち理性(りしょう)の三徳がある。もし総合的に三徳は非新であり非故であり、しかも新であり故であり、全く異なった相はないと達し、他の衆生のためにすることもまた同様であるならば、すなわち秘密蔵の中に旨帰するのである。

また説くならば、無明惑は昔からあることを故と名付ける。法身は明(みょう・もともと無明とは明るい真理がないという意味であるので、その対義語となる)であり無明惑を破るので新と名付ける。しかし、無明即明、明即無明である。無明即明なので、無明即非故である。明即無明なので、明即非新である。取相惑は昔からあることを故と名付ける。無相(むそう・真理には取るべき相がないこと)は相を破るので、無相を新と名付けるが、相即無相であり、無相即相である。どれが新でありどれが故であろうか。無知惑は昔からあることを故と名付ける。知は無知を破るので、知を新と名付けるが、無知即知であり、知即無知である。どれが新でありどれが故であろうか。

以上のように、もし総相と別相、新と故に全く異なった相はないと達すれば、他の衆生のためにすることもまた同様である。この旨帰は秘密蔵に入ると名付ける。

 

〇まとめ

また次に、旨帰もまたこのようである。いわば、旨・非旨・非旨非非旨であり、帰・非帰・非帰非非帰である。それぞれすべて秘密蔵の中に入る。このことは、先に述べたことによって知ることができる。

旨は自行であり、非旨は化他であるので、非旨非非旨には自他がない。旨帰の三徳は寂静であるとはこのためである。どのような言葉や文字で説いて示すことができようか。何をもってこれに名付けて良いか知らない。強いて言うならば、中道・実相・法身・非止非観などと名付け、また強いて、一切種智・平等大慧・般若波羅蜜・観などと名付け、また強いて首楞厳定(=首楞厳三昧)・大般涅槃・不可思議解脱・止などと名付ける。まさに知るべきである。あらゆる相、あらゆる説、あらゆる神通力は、それぞれみな秘密蔵の中に入る。何が旨帰のであろうか。旨帰はどこか。誰が旨帰なのであろうか。言葉の道は絶え、心の及ぶところは滅び、永遠に寂静寂然であることは空のようである。これを旨帰と名付ける。

これは、第十の「旨帰」の章に至って、まさに詳しく説くべきことである(注:実際は説かれず、第十章はその前の八章から欠落している。意識的に説かなかったのか、そこで天台大師が亡くなられたのか、不明)。