大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

『摩訶止観』抄訳 その5

『摩訶止観』巻第二の下 「感大果」「裂大網」の段より

 

(注:『摩訶止観』の構成は、五略十広(ごりゃくじっこう)というが、全体は「十広」といわれる十章に別れ、その第一章が、「五略」といわれる全体を概略的に記した五節からなる「大意」である。そして、この五略の第三が「感大果」で、第四が「裂大網」であり、第五が「その4」で見た「帰大処」である。しかし、この十広の第八章にあたる「果報」と、第九章の「起教」と、第十章の「旨帰」は結局説かれておらず、欠落箇所となっている。また、文の中で、第八「果報」を概略的に説いたものが「感大果」であり、第九「起教」を概略的に説いたものが「裂大網」であり、第十「旨帰」を概略的に説いたものが「帰大処」であると述べられている。したがって、「感大果」「裂大網」「帰大処」から、欠落箇所の「果報」「起教」「旨帰」の内容を推測するしかないが、そのうち、「その4」で見た「帰大処」は、それ相当の分量はあったが、ここで見る「感大果」と「裂大網」は非常に短い)。

 

◎感大果

第三に、菩薩の清浄なる大果報を明らかにするために、正しい止観(注:原文では「是の止観」とある。是とは正しいという意味)を説く。もし修行が中道に未だ達していなければ、すなわち空と仮の二辺の果報がある。もし修行が中道に従えば、すなわち勝妙の果報がある。たとい未だ分断生死(ぶんだんしょうじ・過去世の善悪の業を因とし、煩悩を縁とし、この世の果報を受けて転生する生死のこと。凡夫の段階)から出ていないといっても、得るところの良い果報は、七方便(しちほうべん・修行を始めた初期の凡夫の七つの段階)とは異なる。ましてや、真実の果報はどれほどのものであろうか。『大品般若経』に、「目的地となる七重の香城、その橋や船着場も絵のようだ」とあるのは、この果報の勝れた相を表現したものでる。

この意義は、後に述べる第八「果報」において、まさに詳しく分別して述べるであろう。

問う:『次第禅門』に、修行の果報として、「修証」が明らかにされているが、それとこの果報とはどのような違いがあるのか。

答える:「修証」の「修」は、修行によって得られたことによって名付け、「証」は、体得したことによって名付けられる。また、「修」は修行を因としたことによって名付け、「証」はその因による果であることによって名付けられる。これらはすべて、この生において得るものである。しかし今述べられる果報は、今生を超えて来世にある。これが異なっているところである。声聞と縁覚の二乗は、ただこの世での修行による果のみであり、報いとしての果はない。一方、すべての大乗にはそれがある。

(注:いわゆる小乗は、歴史的釈迦の教えに該当する。歴史的釈迦の教えは、あくまでもこの世に限ったものであり、来世に及ぶ修行や果報は説かれなかった。しかし、それらは大乗においては基本的に説かれており、経典には、今生とか来世などという言葉は、多くの場合わざわざ記されていないほどである。このことだけを見ても、大乗仏教の教えは、今生を超越した霊的真理を表わしているということがわかる)。

 

◎裂大網

第四に、疑いの大きな網を、諸経論が共通して裂くために、正しい止観を説くことについて述べる。もし人がよく止観を用いて心を観じれば、内なる智慧は明瞭となって、漸教や頓教の諸教に通達する。それは、ある人が微塵の一粒一粒の中に経巻があるのを見て、微塵を破って経巻を出すという、『華厳経』の文の通りである。それは、大河の砂の数ほどの仏法を、一心の中に見いだすことである。もし外に向かって衆生に利益(りやく)を与え、人の能力に相応して教えを設けようとするならば、人が耐えられる範囲で、その人にふさわしく説くのである。そして成仏して教化する時、ある時は法王となって漸教や頓教の教えを説き、ある時は菩薩となり、あるいは声聞となり、天、魔、人、鬼などの十法界の姿となって、仏の教えを讃嘆する。また仏から質問され、詳しく漸教や頓教を答え、あるいは仏に質問する側となり、それに対して仏は漸教や頓教の教えを答える。

この意義は、後に述べる第九「起教」において、まさに詳しく述べるであろう。教えをまとめる中で、ここでは略して示すのみである。