大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

種種御振舞御書 その14

種種御振舞御書 その14

 

(注:ここより最後までは、日蓮上人の記した文と思われる)。

もともとわかっていたことではあったが、三度も国を諫めても、用いられなければ国を去るべし、ということで、同年五月十二日に鎌倉を出て、この山(身延山)に入った。

(注:儒教聖典である『礼記』の、「人臣たるの礼、顕わには諫めず。三たび諫めて聴かざれば、則ち之を逃る」による。『報恩抄』にも、「平左衛門尉(平頼綱)に対面して、さまざまなことを申し上げた中で、今年、蒙古は必ず攻めて来る、と言いました。同じ五月十二日に鎌倉を出て、この身延山に入りました。これはひたすら、父母の恩・師匠の恩・三宝の恩・国の恩に報いようとして、身も命も捨てたわけですが、それでも生きているからです。また賢人の習いとして、三度国を諫めても聞き入れられなければ山林に交われ、ということも決まっているからです」とある。佐渡を離れる時も、このことはある程度わかっていた、ということである。前にも述べたが、やはり佐渡を離れる日蓮上人の心情は、複雑なものがあったのである。

では、なぜ日蓮上人は身延山に入ったのか、ということについて、日蓮上人自身、詳しく記していないようである。そのため、定説はないが、間違いなく言えることは、身延が信者である波木井六郎実長(はきいろくろうさねなが・南部実長ともいう。御家人。後に出家し、身延山久遠寺を建てる)が地頭であった地だからである。

この地は、今でこそ、中部横断自動車道が開通しているので容易に行ける場所となったが、それでも、この高速道路が開通する前は、車では国道52号の一本の道しかなく、その道も富士川に沿ってアップダウンやカーブが多く、注意を要する道である。ましてや、日蓮上人当時、この地は現在の甲府からも、海側の清水からも遠く、また富士川が氾濫すれば道も寸断され、たびたび陸の孤島があちこちにできたことであろう。まさに秘境と言うべき場所である。その険しさは、『新尼御前御返事』にも詳しく描写されている。

しかしこのことこそが、日蓮上人がこの地を選んだ理由ではないかと思われるのである。身延へ入って間もない文永十二年(建治元年)に記された、『国府入道殿御返事』に、「また、蒙古国の日本にみだれ入る時は、これへ御わたりあるべし」とある。つまり、佐渡にいる国府入道夫婦に対して、蒙古が攻めて来たら、この身延に逃げて来なさい、ということである。日蓮上人は、必ず元が日本全国に攻め入って来るということを信じて疑っておらず、それならば、最も到達が困難な場所が安全な場所だ、と認識していたに違いない)。

同年十月に大蒙古国が攻め寄せて、壱岐対馬の二カ国が打ち取られただけでなく、太宰府も破られて、少弐資能(すけとし)入道覚恵や大友頼奉(よりやす)入道忍等はそれを聞いて逃げ、その他の兵士たちも、すぐに打たれてしまった。また今後攻め寄せて来るならば、それに対しては、いかにもこの国は弱々しく感じられるのである(注:文永の役についての記述であるが、結局、暴風のため蒙古が退却した、ということは記されていない)。

『仁王経』には、「聖人が去る時には、七難が必ず起こる」とあり、『金光明最勝王経』には、「悪人を用いて善人を権力によって罰するようなことがあれば、やがて他方の怨賊が来て、国中の人々が殺されることになる」とある。仏の言葉が真実であるならば、この国にも、明らかに悪人がいて、その者を国主が尊く用い、逆に善人を排除するからではないか。

『大集経』には、「太陽と月に光がなくなり、あるいは、四方がみな干ばつとなる。このような不善業の悪王や悪比丘が、私(仏)の正しい教えを破るのである」とあり、『仁王経』には、「さまざまな悪比丘が多くの名声と利益を求め、国王、太子、王子の前において自ら仏法を破る因縁や国を破る因縁を説くであろう。その王は善悪の分別できず、その言葉を信じて聞くであろう。これを破仏法破国の因縁と名付ける」とある。また、『法華経』には、「濁世の悪比丘」とある。これらの経文が真実ならば、この国に間違いなく悪比丘がいるのである。

そもそも、宝山には曲がった木は切られ、大海は死骸を留めない。仏法の大海、一乗の宝山には、五逆罪の瓦礫(がれき)や四重禁戒を破る汚水は入るが、正しい教えを謗る死骸のような者と、一闡提(いっせんだい・仏になれない者)の曲がった木のような者はいられないのである。したがって、仏法を学ぼうとする者や、来世の良い生を願う者は、『法華経』を謗る罪を恐れなければならないのである。