大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

種種御振舞御書 その15 (完)

種種御振舞御書 その15

 

みな、弘法大師や慈覚大師を謗る人は、どうして用いられようかと思っている。しかし、他人はさておき、安房の国の東西の人々は、この事を信じるべきである。なぜなら、それは眼前している現証があるからである。いのもりの円頓房、清澄の西暁房(さいぎょうぼう)、道義房・かたうみの実智房などは、尊いと言われていた僧であった。しかしその臨終はどうであったかを尋ねてみるべきである。

これらはさておいて、円智房は清澄の大堂において、三年間一字三礼(注:経文の一文字ごとに五体投地をしながら写経すること)の『法華経』を自身で書写し、十巻すべてを暗誦し、五十年の間、昼夜に二部ずつ読まれた。人はみな、彼は必ず仏になるだろうと言った。しかし日蓮だけが、「道義房と円智房は無間地獄の底に堕ちるであろう」と言っていたが、この人々の臨終はよかったか、どうであろうか。もし日蓮がいなかったならば、この人々は仏になったと思ったに違いない(注:この道義房と円頓房は、日蓮に対して敵対したらしい。円智が日蓮に敵対したことは、『報恩抄』に記されている)。

これをもって知るべきである。弘法大師や慈覚大師などは、臨終が浅ましいほどだったが、弟子たちが隠していたので、公家にも知られず、末の時代では、いよいよ仰がれているのである(注:もし弟子たちが隠していたならば、どうして日蓮が知っているのだろうか。このように、日蓮の文には矛盾が多いが、それほど自らの確信が堅かった、ということである。そしてその確信は、やはり自分の予言が次々に当たっている、ということからきているのだろう。この箇所は、そうであったに違いないと思うことが、そうであった、という断定になってしまっている。またそもそも、臨終の様子など、重要なことではない)。

それを表わす人がないならば、未来永劫までもそのままである。拘留外道(くるげどう)は八百年過ぎて水となり、迦毘羅外道(かびらげどう)は一千年過ぎて、その誤りが表われたという。

そもそも人間として生まれて来たということは、前世で五戒を守っていたということである。五戒を保つ者は、二十五の善神に守られ、同生同名といって、二つの天が、生まれた時からその人の左右の肩にいて守護するために、その人に誤りがなく、鬼神が仇をなすことはない。

しかし、この国の無数の人々が嘆いているばかりではなく、壱岐対馬の両国の人はみな悲惨なことになり、太宰府も言うまでもなく、これは、この国にどのような誤りがあるからなのか、知りたいことである。一人二人なら、常に誤りはあるだろう。しかし同時に多くの人々に誤りがあるとはどういうことだろうか。これはひとえに、『法華経』を見下した弘法大師、慈覚大師、智証大師などの流れをくむ真言師、さらに善導や法然の教えを受け継ぐ弟子たち、達磨などの人々の法系の者どもが国中に充満しているからである。このため、梵天帝釈天、四天王が、『法華経』の座の誓約状の通りに、頭が七つに割れる、という罰を加えているのである。

(注:日本において、元寇のような侵略は、それまでもなく、またそれ以降も第二次世界大戦までないことであった。そしてここにあるように、壱岐対馬の件は悲惨なものであった。それほどの異常事態であり、当時は経典に記されていることはすべて釈迦の言葉であり真実だと、信じ疑わないのが正統な認識であったため、それを忠実に実行した日蓮上人は、『法華経』を誹謗する罪をその理由に見出したのであった。今から見れば、それこそ誤りであることが明らかであるが、それほど、当時の状況は異常事態にあった、ということである)。

疑う者が言う:『法華経』の行者を謗る者は、頭が七つに割れると書かれてあるが、日蓮房を謗っても頭が割れることはないが、それは、日蓮房は『法華経』の行者ではない、ということではないか、それが真実だと思うがどうであろうか。

答える:日蓮は『法華経』の行者ではない、と言えば、『法華経』を投げ捨てよと書いた法然などや、無明の領域を出ないと記した弘法大師、さらに理法が同じで、事象的なことは密教の方が勝れていると宣言した善無畏や慈覚大師などが、『法華経』の行者であるとするべきなのか。

また、頭が七つに割れるということは、どのようなことなのか。刀をもって切るように割れると思うのか。経文には、阿梨樹(ありじゅ・この植物の枝あるいは花は、落ちると七つに割れるといわれる)の枝のようだと書かれている。人の頭には七滴の精気があって、七つの鬼神が一滴食べれば頭が痛み、三滴食べれば命が縮み、七滴みな食べれば死ぬという。今の世の人々は、みな頭が阿梨樹の枝のように割れているが、悪業が深いためにそれを知らない。たとえば、傷を負った人でも、酒に酔ったり、深く寝入ってしまったりすれば、その痛みを感じないようなものである。また、頭が七つに割れるということは、または中心が七つに割れるということであり、頭の皮の底にある骨がひび割れることであり、死ぬ時は割れることもあるのである。今の世の人々は、去る正嘉の大地震や文永の大彗星の時に、みな頭が割れてしまった。その頭が割れた時、喘息を病み、内臓が損なわれた時、赤痢になったのである。これは『法華経』の行者を謗ったための罰であるとはしらないのか。

(注:大乗経典も、歴史的釈迦より約四百年以上たった時代の人々の創作である。その経文を、あくまでも一言一句誤りのない真実だとすれば、このように言葉を連ねて言い訳のようなことをひねり出さねばならなくなる。そうではなく、真実の大乗経典の読み方は、その文字の底にある霊的真理を読み取ることである。それでこそ、大乗仏教の真理を知ることができるのである)。

鹿の肉に味があるために、鹿は人に殺され、亀はその身に油があるために命を奪われる。女人は、見た目が良ければ嫉妬する者たちが多い。国を治る者には、他国の恐れがある。財産がある者は命が危うい。『法華経』を持つ者は、必ず成仏するのである。

したがって、第六天の魔王という三界の主は、この経を持つ人に対して特に嫉妬するのである。この魔王は、まるで疫病神が誰の目にも見えずに人に取り付くように、古酒に人が酔うように、国主、父母、妻子に取り付いて、『法華経』の行者に対して嫉妬すると経文にある。これに少しも違わないのが現在の世である。

日蓮は、「南無妙法蓮華経」と唱えるゆえに、約二十年間、住む所を追われ、二度まで幕府の迫害を蒙り、最後にはこの山に籠(こも)った。この山の様子は、西は七面山、東は天子嶽、北は身延山、南は鷹取山、そしてこの四つの山の高さは天に届くばかりであり、その険しさは鳥も難儀するほどである。その中に四つの川がある。いわゆる富士川、早川、大白川、身延川である。その四つの川の中にある一町歩ほどの土地に庵室を構えた。

昼は太陽の光も見えず、夜は月も拝することができず、冬は雪深く、夏は草茂り、訪ねて来る人も希であれば、道を踏み分けることも難しい。特に今年は雪が深く、人が来ることはない。

命を懸けて『法華経』ばかりを頼み奉って暮らしていたが、音信をいただき感謝しています。おそらくは釈迦仏のお使いか、過去の父母のお使いかと思われてなりません。

南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経

(完)